出 版 社: 早川書房 著 者: カズオ・イシグロ 翻 訳 者: 土屋政雄 発 行 年: 2021年03月 |
< クララとお日さま 紹介と感想>
人間だったら友だちだけどロボットだから、といえばロボダッチですが、もはやロボダッチって何?という現在(2022年)ですね。ロボットを友だちにするという夢想は、そう遠くない未来に実現されるはずです。かつての牧歌的でユーモラスな友だちロボットのイメージではなく、AI搭載の人間そっくりなロボットが友だちになることも実現可能な話だろうと思います。一方、ロボットが人間そっくりであればあるほど、人間ではないことが意識され、不気味さを感じるものだそうです(所謂、不気味の谷現象)。そこには人とロボットを分けている「人間性」とは何かが意識されます。また人間とは違うAIロボット独自の感性はこの世界をどう捉えているのかも気になります。自分の意思を持ったロボットには、どのような行動原理があるのか(ロボット三原則ではなくです)。本書は、カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞後初作品として刊行された注目された一冊です。人間の子どもの情操教育のための「友だち」として作られたロボット、AFは、電化製品のようにショップで売り買いされる存在です。人間の友だちに奉仕することを使命としてインプットされている彼らですが、それぞれ個性があり、指向性が違います。本書の主人公であるロボット、クララは、ショートカットでフランス人の女の子のような外見をしているということよりも、観察眼に優れ、思慮深く、好奇心が強いという性格こそが特性です。「友だち」である人間に対して無条件に好意的で思いやりがあることはもちろんですが、無私の奉仕精神とその「敬虔さ」は美質でありながら、やや行き過ぎていて恐ろしくもあります。それもまたロボットを「人間視」してしまうがために抱く感想なのです。このロボットの物語が逆照射するのは、普通の人間だったら、この事態をどう捉えるのかという人間本位での発想なのです。クララの感性を「人間視」すると、非常に純粋であり尊ささえ感じます。一方で、それが機械の頭脳の中で起きている電子的な現象だとすると、その感情や心根をどう解釈したら良いのかと不思議な気持ちになります。それでも機械であるクララを愛おしく思ってしまう、読者自身の心というものについても深く考えたくなる物語なのです。
おそらくは未来。経済的に恵まれた子どもたちは、遺伝子操作である向上処置を受け、その高められた能力によって豊かに暮らせる将来が約束されている時代。学校に通わず、家庭教師の指導を受けるエリートの子どもたちの情操教育のために作られたのがAFと呼ばれるロボットです。AI(人工頭脳)が搭載されたロボットは独自の感情を持ち、親友として一緒に暮らしながら、子どもたちに奉仕することを使命としていました。最新型に比べると機能的に劣る旧型のAFであるクララは、お店のウィンドウに並びながらもなかなか買い手がつきません。それでも彼女には鋭い観察眼と好奇心があり、店の窓越しに外の世界を眺めることがとても好きでした。やがて、その観察眼を母親に見込まれて、ジョジーという少女の「友だち」になる機会をクララは得ます。ジョジーの家に迎えられたクララは、ロボットであることで家政婦のメラニアに冷たくされることもありましたが、ジョジーとの関係も良好で、真心を持って友だちとしてジョジー仕えていきます。亡くなった姉のサリーと同じように、ジョジーもまた、向上処置の副作用で、身体が弱くなり病気がちでした。クララは彼女の具合が悪いことの原因を汚染を撒き散らす工業作業車の影響だと思い込み、なんとかそれを破壊できないかと考えています。そして、お日様の特別な力によって、彼女が復調するだろうと信じていました。その祈りと願いに突き動かされ、クララは突飛な行動を起こします。一方で、クララはジョジーの母親が、どうして自分にジョジーを詳しく観察させ、模倣させるのか、その理由を知ってしまいます。クララに託されたもう一つの使命もまた、人の心の悲しみを垣間見せるものでした。人間の複雑な心映えを観察するクララの視線が捉えたものと、純粋なクララの心模様が対比され、やがて人間存在の不思議が解体されていきます。
人間の心は複雑です。その言葉や表情は、心とは裏腹な場合もあります。人間同士には微妙な駆け引きがあるし、虚勢や虚栄によって、心にもないことを言うこともあるのです。クララは人間の心の裡を慮り、理解しようとしますが、近所に住む幼馴染のリックとジョジーの関係性は、特に難しいものでした。互いに好意がありながら、素直な態度をとらずに、鞘当てばかりを行うのはどうしたわけか。リックは向上処置を受けてはおらず、才能がありながらも、この時代ではその将来が限られている少年です。かといって、クララが同じ向上処置を受けた子どもたちとの交友で、素直に打ち解けられるかといえばそんなことはありません。社交の場で人が見せる態度と本当の思惑が一致するはずもないのです。クララはいつもジョジーの傍らにいて、その難しい関係性での駆け引きを見守っています。人が人と関わり合いを持つとき、いたたまれない場面に遭遇することは多々あります。人間は気難しく、だからこそ心を開いて通じ合えた時に歓びがあるのかも知れません。クララはいつも一途に人間を気づかいながら、自分の真を貫きます。ジャジーの病状は悪化し、その命は尽きようとしていました。ここでクララには二つの未来の可能性が与えられていました。自分はどうなりたいのか、という意思はクララにはありません。敬虔な祈りをジャジーのために捧げる、まったくの無私の奉仕者であるクララ。その最後にたどり着いた場所と、その境涯について、彼女を人間とみなして考えると、それで良かったのだろうか、と思ってしまいます。尊ぶべき美しい魂がここにはあります。無償の愛情を注ぎ、無私の奉仕をする。それによって幸福に満たされる魂もまた存在します。ただ、そこに美しさを見てしまうことに、どこか抵抗があるのです。それはやはり、クララを人間視しているからだろうし、人間視するというのは、愛情の形ではないのかとも思うのです。動物を人間視することはあっても、掃除機を人間視することはないですものね(いや、ルンバはけっこう人間視されるそうです)。