コロッケ家族とスパゲッティ家族

出 版 社: 学研プラス

著     者: 浜たかや

発 行 年: 1987年02月

コロッケ家族とスパゲッティ家族   紹介と感想>

正一のパパは大学の先生。一年間、フランスで研究生活を送っていました。ママはその間、料理を習いに行っており、パパが帰ってきたことを喜んで、ご馳走を用意したのに、パパはだまって食べるだけ。それでいて、自分で高いお肉を買ってきてはフランスで覚えてきた料理を作るとい言い出すなど、要は奥さんの気持ちが全然わからない人なのです。パパは実に無神経で、一言多く、ママをイラつかせながらも、良かれと思ってやっているので、それには気づいていません。カッとしたママは妹を連れて出て行ってしまい、パパと正一は二人で暮らすことになります。こうして、残された父と息子の食生活は、買ってきたコロッケやメンチカツが毎日続くようになりました。この食生活に辟易して、どうにしかして、両親を仲なおりさせたい正一。それなのに、さらにパパが同級生の母親と仲良くなっていくのを心配したりすることになります。果たして、両親の不仲が解消して、元のように家族一緒に暮らせる日がくるのでしょうか。

この物語、鑑賞点や論点がいくつもあります。ひとつは、パパの無自覚なモラハラ気質です。仕事一途のエリートであるパパが、奥さんがどんな気持ちで料理を作っているかには構っていられないというのは、さすがにこの物語が書かれた昭和末期には許容されず、奥さんは出て行ってしまいます。まあ、そこから30年以上経った現在でも(この文章は2020年に書いています)、奥さんが作った料理を一口も食べないまま調味料をかける人もいるし、感謝を口に出す習慣がないという人もいると思います。この意識改革はなかなか進まないようですが、この点を描いたことは、この物語のうがっているところだなと思います。人の気持ちへの想像力がナチュラルに欠けた人はいるものです。一方で、この物語では、パパが買ってきたコロッケやメンチカツとインスタントラーメンが「さえない晩ごはん」とされてしまっています。正一は母親と一緒に出ていってしまった妹には虚勢を張って、晩ごはんのおかずは厚さが三センチもあるステーキだと言ってしまいます。この食事についての「優劣」のつけ方は前フリで、ささやかなものでも「家族一緒に作って食べる」ことが幸せなのだという結論に落ち着きます。巻末のあとがきで、著者は、エスカルゴを食べたことのない友だちを疎外する子どもたちの会話について触れています。高級料理を食べているからと言って、人を見くだす子ども憂う著者の気持ちが表れた物語なのです。かといって「同じものを食べるとき、人の心はかよいあう」という著者の言葉が、当時は正論とされたのか。バブルや飽食の時代のアンチテーゼとしては成り立ったのか。僕はここが非常に気にかかるところなのです。

妹の由紀子は、正一とパパが、毎日、コロッケやメンチを食べていることを知り、かわいそうだと、スパゲッティを作ってあげようとします。それを心配してみかねてママが戻ってきて、家族でスパゲッティを食べて丸く収まる、というストーリーです。この物語でのコロッケは、仕方なく買ってきた出来合いのオカズの象徴です。メンチもまた同様です。そこに対立する概念がスパゲティで、手づくりで家族で囲む食卓を表しています。ここには、買ってきたコロッケが美味しいという感じ方はストーリーの進行上、ノイズになるため除外されています。高価なものを食べていることの方が幸せである、という価値観を覆すものが家庭で作るスパゲティであり、家族が仲良く暮らすことを象徴して、その大切さが説かれています。買ってきたコロッケが当て馬に使われていることが悔しいというのは置いておいて、この「家庭料理至上主義」の価値観をいささか疑問視してしまうのが2020年現在の潮流かと思います。この文章を書いている少し前に「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」という言葉がS N Sを賑わしました。色々な家庭環境があり、多様な幸福の形があります。そこに優劣をつけるような決めつけは完全にどうかしているわけです。僕もまた自分の意識の死角を痛感することがあり、正しいと思っていたことの傲慢さに気づくことが多いので、自戒をこめて、そう言っておきます。また時代を越えても貫ける正しさと、そうではないものがあります。いや、人は少しずつ賢明になっているということか。今、『クオレ』などを読み返すと、結構、びっくりするわけですが、フラットな視座で色々な時代の作品を読んで、正しさの変遷について考える意味はあるかと思っています。