ペーパータウン

Paper towns.

出 版 社: 岩波書店

著      者: ジョン・グリーン

翻 訳 者: 金原瑞人

発 行 年: 2013年01月


<  ペーパータウン  紹介と感想>
ハイスクール卒業を二週間後に控えて、マーゴが失踪しました。美人で、ちょっと尖った個性を持っていて、みんなの人気を博していた彼女がいなくなったことは、さまざまな憶測を呼びます。もしかすると、すでに死んでしまっているのかも知れない、なんて噂も飛び交います。マーゴの家の隣に住む幼なじみで、ごく平凡な少年であるクエンティンは、同じハイスクールに通いながらも、マーゴとは住む世界が違っていました。マーゴとは親しくしているし、それなりの信頼は得ていたものの、知り合い以上ではない関係。それでもひそかにマーゴに惹かれていたクエンティンは、彼女の足取りを追ってみようと考えます。いなくなる一週間前にもマーゴの無茶につきあわされていたクエンティン。しかし、今回のマーゴの行動の意図はわからなかったのです。彼女の失踪には何かメッセージがあるのではないか。マーゴの部屋に残されていたものから、クエンティンはマーゴの考えていたことをたどろうとします。そこには、死を暗示させる何かがある。彼女の部屋に残された詩集や沢山のレコードなどから、クエンティンはこれまで自分が思っていたマーゴとは違うマーゴを発見していきます。ブロムや卒業式を控えて、浮足立つハイスクールの生徒たち。長い学校生活に別れを告げて、新しい世界に進もうとするその前夜に、ハイスクールのヒロインだったマーゴがいなくなる。そのことは、みんなの心に少なからず影響を与えていました。バカバカしくも華やかでクダラナイ学校生活が終わろうとするカウントダウンの中でマーゴを探すことにどんな意味があるのか。マーゴを見つけ出すため、卒業式をサボり、1,700キロをミニバンで疾走するクエンティンと仲間たち。クールでウィットにとんだ会話の楽しさと、青春小説らしい惜別の予感をたたえた作品です。

気が強くて、傲慢で、突飛な行動をとる美少女にふりまわされる男子は、なんだかんだいって真面目で、ロクに彼女を作ることもできないタイプ。普通なら親しくなることもないはずの二人なのに、たまたま隣同士の幼なじみだったことで、特別な関係にあるような気がしてしまうのは、男子側の勝手な思い込みです。しかも、彼女には普通の人とは違うサムシングがある・・・ような気がする。高校生ぐらいの年頃は、他人を等身大でとらえることができず、勝手にイメージを膨張させたり、見下したりするものですね。例えば、高校生時代に、T・Sエリオットやホイットマンの詩を読んでいる同級生(しかも異性)なんて見かけたら、ザワザワと胸騒ぎがしてしまって、なにやら色眼鏡で見てしまうものです。趣味は趣味でしかないのに、趣味とアイデンティティを同一に考えがちな時期です。「何を読んでいるか」よりも「どう読んでいるか(読めているか)」が重要ですが、本質に迫らないのは、あえて好意的な誤解をしたいからかも知れません。過大評価と過少評価は、他人だけではなく自分自身に対してもくだていて、フラットに考えることなんて最初から無理なのが十代です。とはいえ、勝手に抱いた理想像に気持ちを寄せていけるのが、この時間の特権。すべてのフタが空いて、手の内がわかり、謎が解かれた時はじめて、人間同士の共感や関係性がようやく生まれるものだし、フィルターを外したところで、やっと等身大の同級生を見つめられるようになるのかも知れない。思春期の魔法が解ける時、それは終わりでもあり、スタートでもある。まあ、みっともなく、身もふたもない心のゼロ地点を自ら認めるあたりから、次のターンがはじまるのでしょうね。

ハイスクールが舞台の作品といえば、かならず登場するのがプロム(高校卒業パーティー)です。プロムに対する態度で、登場人物の人となりがわかります。YA作品の主人公たちは、概して、プロムに対してやんわりと否定的でありながらも、楽しんで参加している人たちがうらやましくないわけでもない、ぐらいが基本スタンスです。プロムはアメリカのハイスクールの、スクールカーストの象徴みたいなところがあって、おおよそカーストの下位か番外に甘んじているYA作品の主人公たちにとっては、すっぱい葡萄にならざるを得ないもののようです。ヘタにのこのこ出ていったりしたら、壇上に上げられて、ブタの血を頭から浴びせられるかも知れない、なんて。今にして思うと、学生時代は学校行事を目いっぱい楽しむというのが、正しいあり方だったのだと僕も後悔しています。どこかバイアスがかかってしまって、斜にかまえざるをえなかったり、シラケたフリや、興味のないフリをしてしまうこともありました。それは良くないことだと反省しています。そもそも、ハイスクールでうまくやれない人間が、社会でうまくやれるはずがないのです。人生で大切なことはすべてハイスクールのカフェで学ぶもの。そうした経験を踏まえてこそ、「人生はハイスクール・ミュージカルじゃないんだぜ」と忠告することも、「人生なんてハイスクール・ミュージカルみたいなもんさ」とうそぶくこともできます。どちらの方が含蓄のある言葉なのかしらんと思っています。なんて、自分で書いていても、もうひとつ意味は不明です。

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