出 版 社: 主婦の友社 著 者: バーリー・ドハーティ 翻 訳 者: 斉藤倫子 発 行 年: 2010年02月 |
< ライオンとであった少女 紹介と感想 >
物語は長いトンネルを抜けて終章を迎えます。そこでようやく、心底ほっとすることができます。幸福な結末がくるのかな、という期待は、幸福な結末がきてほしい、という願望に変り、そうじゃないと絶対ダメだろ、と次第にテンションが上がり、収まりがちゃんとついた時には、心から安堵することができました。探していた大切な書類がやっと見つかったような気分です。子どもが辛い目に遭う話は読んでいて厳しいのですが、このハッピーエンドで、ようやくスッキリしました。受苦はカタルシスにいたる通過点、とはいえ、なんとかそんな目に子どもたちを遭わせたくないものだと、ヒューマニストではない僕でもそう思うのです。このお話は平行線をたどる二つのお話が、やがてひとつに交わるために進行しています。アフリカのタンザニアに住む少女アベラと、イギリスのシェフィールドという都市に住む少女ローザの物語。二人のそれぞれの胸の内が語られながら進行していくお話。二人がいつか出会う予感を与えられつつも、もしかしたら、これはそういう話ではないのかも知れない(!)。そんな不安も抱えながら、読み進めるうちに、なんとかみんな幸せになれないかなと(くどいようですが)ヒューマニストではない僕でもそう思ったのです。是非、心優しい読者の方に、手に汗を握り、袂を濡らしつつ読んでいただきたい。そんな本です。
HIVが蔓延するアフリカ。治療もできないままに死んでいく多くの人たち。瀕死のお母さんと一緒に病院を訪ねたアベラは、そこには一切の薬がないことを知ります。つまり、お母さんが助かる希望がない。お父さんを同じ病気で亡くし、今またお母さんも死んでしまおうとしている。9歳のアベラにとっては耐えきれないできごとが、まさに現実になってしまいました。「強くなりなさい。わたしのかわいいアベラ」。お母さんのその言葉を胸に、アベラはこの後に続く多くの苦難を乗り越えていきます。悪い叔父さんにだまされイギリスに不法入国させられ、そこで面倒を見てくれるはずの人からも酷い扱いを受けた上に放りだされて、ついにはロンドンで孤児となり、グルグルと「たらい回し」が続きます。誰かを憎んだり、恨んだりすることもなく、アベラはただお母さんの言葉を思い出しながら強く生きようとしています。自分はライオンと出会ったことがあるのだ。アベラは勇気をふりしぼります。やがてアベラがたどり着くであろう場所を読者は知っています。ただ、そこにいたるまでの道のりはかなり険しい。多くの偶然が関与しなければ、そのめぐりあいは巡ってこない。そして読者は、並走する、ローラの話を読みながら、家族が家族であることの意味を考えさせられていきます。十三歳のローラが抱える気持ちの葛藤。国に帰ってしまったアフリカ人のお父さんと離ればなれのまま、白人のお母さんとイギリスで暮らすローラ。何故、お母さんはタンザニアの子どもを養女にしたいなどと言いだしたのか。求めあう気持ちがひとつに結ばれた時、そこに至るまでのプロセスもまた、けっして辛いだけの日々ではなかったのだと、そんなふうに感じられるものかも知れません。
子どもが家族を自分で選ぶ、なんてことを強いられるのは、とても難しいことだなと思います。そんな「選ぶ権利」はとても重すぎて、子どもの手には余ります。どうすれば幸福になれるのか。将来にわたっての責任を自分で引き受けることになる。例えば、離婚した両親のどちらについていくか問われた子どものように、その決断を一生、自分に問い続けなければならなくなってしまう(ということで、越水利江子さんの『竜神七子の冒険』は見事な作品なのです)。ただ、運命の糸のようなものがあって、いつか本当に幸福になれる場所があって、それまでの辛い時間さえ、揺籃みたいなものになってしまうんだなんて、そんな風に、すべてがうまくいくゴールに向かって進んでいくスイッチを自分で押せるのなら、それは誇らしくも素敵なことのはずです。きたるべき幸福な結末に合流する、二本の川を眺めながら、必然的にそうなったのだと運命を祝福したくなる、この物語の展開を是非、慈しんで欲しいと思います。