ヒットラーのむすめ

Hitler’s daughter.

出 版 社: 鈴木出版

著     者: ジャッキー・フレンチ

翻 訳 者: さくまゆみこ

発 行 年: 2004年12月


ヒットラーのむすめ  紹介と感想 >
渇いた心を潤す、その言葉が欲しくて、焦がれるような思いで待っていたけれど、結局、願いは叶わなかった。誰よりも、私が一番大切な存在なのだと、そう一言、言ってさえくれれば、どんな恐怖にもおびえることなく、空腹さえも満たされたかも知れないのに。愛情をたしかな言葉で示して欲しいという願いは、そんなにも贅沢なのか。私の顔にアイロンのヤケドのようなアザがあるからだろうか。左右の足の長さが違って、足をひきずってしか歩けない身体だからだろうか。ヒットラーの娘はそう考える。いや、「ヒットラーの娘」の物語を考えていた娘がそう考えたのか・・・。ヒットラーの娘の名前は何がいい?。ハイジにしよう。これは「お話ゲーム」なんだから、なんだっていいの。通学バスを待つ間の退屈しのぎに、一人の少女が物語りはじめたのは、あのヒットラーに娘がいたとして、という奇想天外な話でした。何故、娘のハイジはヒットラーがあんなことをするのを止められなかったの?。物語る少女アンナに、年少の少女トレーシーは色々と質問をします。ヒットラーがどんな人だったか知らなかったから。だって、ハイジは戦闘から遠ざけられて、広いお屋敷で家庭教師の先生と二人で暮らしていたようなものだから。そう、彼女は誰とも親しくさせてもらえていなかったの。ただ、父親であるヒットラーが、たまに訪ねてくるのを楽しみにしていた。そして、いつもお父さんに愛されていたいと思っていたの・・・。アンナの「お話」は、この物語を聞く、トレーシーや、同じ通学バスを待つ仲間のマークの心を、すっかり掴んでしまいました。

幻惑される物語です。戦乱の中を、ハイジと名づけられたヒットラーの娘が、いかに生き抜いたのか。まるでロシアのアナスタシア皇女の伝説のようなロマンティシズム。そして、ハイジは、どんなにか、愛情を希求しながらも、無力な存在のままで放っておかれたのか。語り手の少女アンナの、どこか訳ありげな口ぶりも、とても気になります。果たして、この「お話」はどこに行き着くのでしょうか。空想のお話よ、とアンナは言います。ハイジという、不幸な娘の物語は、ヒットラーの娘、という身分を失ったとき、新しい世界を獲得します。それにしても、ハイジが本当に欲しかったものは、一体、なんだったのでしょうか。

たしかに、考えるべき点は沢山あって、問題意識としては、ヒットラーの罪業や、戦争犯罪というものについて思いを馳せてしまいがちです。しかし、この作品を、ただの平和主義の教訓的な物語だけと考えるのは、少し違うような気もします。子ども、という存在は本質的に、親や教師に何を乞うのか。例えば、両親に「もし自分が数万人を殺害した犯罪者となったとしても、それでもまだ、自分を愛してくれるのか」という喉元にナイフをつきつけるような、重い問いかけをするとき、子どもは、どんな「答え」を求めいるのでしょうか。アンナの物語に刺激されて、少年、マークは自分の父親にそう尋ねます。また、自分の親がヒットラーのような人物だったら、と自問します。マークに、満足いく答えは与えられたのか。罪業というもの、そして、情愛というもの、足し引きして計算できるようなものではないものを、人間存在が持ちうるということに、倫理を越えたところで、深く感じ入るところがありました。不思議な印象を受ける、蟲惑的な物語です。

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