出 版 社: 講談社 著 者: 笹生陽子 発 行 年: 2009年05月 |
< 世界が僕を笑っても 紹介と感想>
友だちがいない、ということを恥ずかしく思ってしまうのは、社交性の無さが露呈してしまうからでしょうか。自分もそうなのですが、人気がなく、誰にも好かれていないのだと表明することのような気がして、ちょっと躊躇ってしまうのです。とはいえ、友だちがいなくても平気というのは、強くて安定したメンタリティなわけで、誇っても良いことなのではないかと思うのです。人と付き合う時もあれば、そうじゃないこともある、ぐらいのスタンスでいられると良いですよね。迎合しないが拒みもしない。そんな自然体が理想です。学生の頃はなかなかそうはいかなくて、無理をして付き合ったり、逆に意地を張ったりして、同級生との距離をはかりかねていたのですが、年をとると、そのあたり良い塩梅になってくる気もします。そんな余裕の態度で過ごせると理想だったかと思いますが、まあ、人間関係の葛藤があってこその中学生時代であったか。本書の主人公の中学生二年生男子はいたってクールで動じないところがあり、同級生と積極的に親しくすることもないけれど、誘われば付き合う、ぐらいの自然体でいます。いや、オタクの同級生に無理に押し付けられた興味のないDVDを三日がかりで見て、ちゃんと感想を言うなんてなかなかの社交性ではないかと。母親は出て行ってしまい、ギャンブル好きでちょっとデタラメな父親との二人暮らしを続けていると日々の生活で一杯ということもあって、学校のことはわりと雑事になってくるのかも知れません。友だちはいなくても平気だけれど、社交性がないわけではなく、人と繋がることもやぶさかではない。もちろん媚びることも人の顔色を伺うこともしない。それでも人間に対する興味はあり、歩み寄ろうとは思っている。そんなスタンスの主人公が遭遇した学校の事件。終始、落ち着いている主人公は、学校の人間模様をハスに見ることもなく、温かい眼差しを先生や同級生に向けながら、ほどよいスウィング感で人とつきあっていきます。笹生陽子さんらしいユーモアのセンス溢れる心地良い作品です。
北村ハルトが携帯電話を手にすることになったのは、いつもギャンブルで負け続けの父親がたまたま万馬券を当てたからです。三歳の時に母親は出て行ってしまい、いい加減な父親との貧乏な二人暮らしは、ハルトを父親に期待しないクールな目つきの少年に育んでいました。ふってわいたようなプレゼントに驚きつつも、携帯電話の操作法をマスターし、インターネットにアクセスできるようになったハルトは、自分の学校の非公式HPも見つけ出します。中学二年生の始業式を前にしてハルトは、区教委が差し向けた新しい先生が着任するという情報をそこで入手します。問題のある生徒たち、山辺グループの対応で心を病んで休職した前任の先生のピンチヒッターでやってくるのは、どんな凄い先生なのか。果たして、ハルトのクラス、二年D組の担任となった小津ケイイチロウは、どうにもヤボったく、軟弱そうな身体つきの落ち着きのない青年でした。新任挨拶で緊張しすぎて昏倒する、初日からしてお騒がせの小津先生を、生徒たちは生温かく見守り始めます。理想は高いが空回りし続けるオヅちゃんこと小津先生は、クラス運営の一環として校庭で野菜作りをすることを提案します。しぶしぶ付き合わされている生徒たちも、どうにも要領の悪いオヅちゃんが区教委から派遣されてきた問題解決のための最終兵器ではないと気づき始めます。実際、同じタイミングで赴任してきた若い女性の先生こそがその役割を担っていたのです。一方、なりを潜めていた山辺グループは、また威力を回復しようとしていました。大人しい生徒たちは山辺グループに迷惑しながらも、非公式HPで愚痴を言うだけが捌け口で、クラス委員長は何もできないまま心を病んでいったという過去の経緯を、ハルトは非公式HPの履歴をたどることで把握していきます。担任のオヅちゃんが不甲斐ないせいでクラス丸ごと学校内で軽視されたりと、自分たちの危機的状況をネット上で話し合う二年D組の生徒たちは次第にエスカレートして、うっかり山辺の悪口まで口走るところとなり、リアルの世界の山辺グループに目をつけられることになってしまいます。ダメクラスの仲間たちのプライドを守り、笑われても、自分から世界に笑いかけて肯定するために、北村ハルトは山辺との喧嘩を買ってしまうことになるのですが、なんだかんだあってトラブルは解消します。ピンチはあったとしても、必ず切り抜けられる。世の中、そう悪いことばかりじゃない。クールなタッチでユーモラスに描かれるささやかな希望が小気味良い物語です。
刊行当時に読んで以来の再読です。現時点(2022年)の視座から見るとまた感慨深いものがあります。物語の道具立てとなっている学校の非公式HP、いわゆる学校裏サイトの掲示板は、教室とは次元の違う場所に存在する、もう一つ学校の社交場です。ここに同じクラスの生徒が集まって意見を交わしているものの、ほとんどが「名無し」という匿名未満で固定ハンドルでさえなく、固体認識さえされないのが面白いところです。自分の存在を勘繰られたり、顧みられたくはないけれど、わだかまる気持ちを表明したいために書き込みを続けている子どもたち。教室もまた社会的な立場がなければ発言できない場所です。大人しい子たちは、声の大きい生徒たちに言葉をかき消される以前に、自ら言葉を発することを止めてしまうのです。闊達な意見交換がリアルな教室で行われず、裏掲示板で正体を隠して密かに会話が交わされている自体をどう考えるべきか。ここだけが本音を話すことができる解放区であり、平等な立場でいられる、というも歪んだ構図です。ここにリアルな学校の関係性が持ち込まれて大混乱した果てに、最後にはそれぞれ匿名だった子どもたちが正体を明かし、ネット空間とリアルの融合が果たされるという展開です。誰が誰やらわからなかったネットの書き込みが、わかり始める展開もまた楽しいところでした。ネットには、むき出しの悪意が巣食うだけではなく、実は正義を希求する小さな声も息づいています。学校裏サイト問題は2000年代半ば頃から社会問題となり、かつてのネット掲示板からSNSにシステムが移行していますが、問題の本質は変わっておらず、タブレットの支給が遠因となってネットいじめが起こるケースがあるとも聞いています。さて、正義を希求する声は今もネットに息づいているのでしょうか。