きみの存在を意識する

出 版 社: ポプラ社

著     者: 梨屋アリエ

発 行 年: 2019年08月

きみの存在を意識する  紹介と感想>

自分が困っていることと、誰かを困らせていること、どちらを問題だと思うか。後者も、どのみち自分も困ることにもなるので、結局のところ同じかも知れませんが、捉え方の起点の違いは大きいものです。困っていることを表明するか、心の裡に潜めるか、ということも重要な選択です。卑近な例に過ぎますが、授業中、トイレに行きたくなった時、手を挙げて、授業をストップさせてでもトイレに行くか、それともひたすら我慢するか、人はどちらも選択できます。前者を恥ずかしい行為だと思うかどうかがポイントです。いや、恥ずかしいと「思われる」かどうか、そして、それを気にするかどうか、でしょうか。このあたりの葛藤は実に思春期的です。大人になると大分、考え方が変わります。過剰な自意識は随分と緩やかになります。人に迷惑をかけられることも、お互い様だと寛容になったりするものです。いや迷惑だとさえ思わないかも知れません。自分の恥ずかしさを意識しやすい時分は、人の行動も恥ずかしいと思いがちなのかも知れません。人に寛容であり、自分にも寛容になれれば、理想的です。ともかくも、楽に生きられる道を探すべきでしょうね。他の誰かが、恥ずかしいという気持ちを抱いて困っていることがあるならば、心を寄せられるようでありたいと思います。本書は、困った時のそれぞれのスタイルや、それに対する多様な考え方について、共感を与えてくれる物語です。特定の正解が示唆されるものではありません。公正な視座からヒントをくれる大人も何人かは登場しますが、基本、大人は無理解で、子どもたちが自分たちでもがいて答えを出すしかない、という閉塞状況は(このあたり国内児童文学のモードの変遷もあって、今となっては)懐かしく感じるところです。このもがきが魅力的であり、考えさせられます。学習障がいや発達障がいを扱った国内作品である、今井恭子さんの『丸天井下の「ワーオ!」』や、工藤純子さんの『となりの火星人』と併せて読むと、この作品の独自のスタンスと、訴えるところがより見えてくるかと思います。

中学二年生の、ひすいは本を読むことが苦手です。苦手なのは読む練習をしないからだとか、根気がないからだと母親に叱られています。クラスの新しい学級担任は読書指導に熱心だけれど、独善的で、ひすいのような子の気持ちは斟酌されません。この物語の大人たちは、学習障がいであるディスレクシアに対する意識が非常に低いのです。ひすいもまた、自分ができないことは口に出したくありません。読書活動の成果は班ごとの連帯責任にされ、読めないひすいは、読書記録カードを提出することができずに次第に追い詰められていきます。同じクラスの女子、心桜(こはる)もひすい同様に文字を読んだり、書くことが苦手です。しかし、彼女は毅然と自分の障がいを主張し、先生にパソコンの使用などの配慮を求めます。沈黙を続けながら、なんとか取り繕ろうとしている、ひすいは、できない人は迷惑がかからないように黙っているべきだと考えています。人に気を使わせてはいけない。配慮を求める困った子になるわけにはいかない、という心理的拘束があるのは、人より劣っていることを認めることになるからなのか。自分がどうであるかよりも、どう思われるか、に比重がかかっている年頃です。この物語は、ひすいを始めとして、心桜や、ひすいの家の養子となった血の繋がりのない兄弟の拓真や、女の子か男の子かどちらの性でもない感覚があり、普通の子とは違う自分を持て余している理幹(りき)や、芳香剤への強い拒否反応があり過敏症で登校できなくなった留美名など、生きづらさを抱えた中学生たち、それぞれの心境を垣間見せられ、彼らが互いを見つめる視線が交錯する多層な構造を持った物語です。他人の思惑を気にすることと、自分の思惑自体を掘り下げること。内省を繰り返しながら、自分なりの生き方のスタイルを掴んでいく子どもたちの姿が映し出されていきます。人を困らせる子だとか、何もできない子だとか、人から自分を劣等な存在だと「思わされる」ことには抵抗しなければなりません。自分が活かされて生きる道があることを真摯に考え、知識を身につけて自分を防衛しようとする子もいます。自分の人生を自分に取り戻すために戦う子どもたちの姿やその覚悟を、労しく思います。一方で、自分の不得意を隠し続けることで、自分を守ろうとする気丈さもあります。何もできない存在であっても、人が人として大切にされること。同じであることを求めたがる、大人や社会に対して、マイノリティの子どもたちが抗うそれぞれのスタンスに、感じ入るところです。いや、大人がもっとサポートすべきだと思うのですよ。子どもたちに「宇宙のみなしご」ではないのだと、どうしたらわかってもらえるのか。働きかけていく方法を考えてしまいますね。

この本を最初に読んだ際に、非常に強い感情を感じとって気圧されてしまい、言葉が出てこなくなり、レビューを断念していました。再読しての再挑戦です。多少、冷静に読めたのでしょうか。どうも穏やかではいられなかったのです。これも過反応かも知れませんが、こうした心持ちを、他の誰かに斟酌してもらうことは難しいものだろうと思います。ディスレクシアを描いた物語には、理解者である大人が現れて、失意に沈む主人公を救い励ますことの方が常套です。ただそれは現実には奇跡的な偶然によるものかも知れません。救済者が現れない魂の荒野にあって、無理解な大人や社会に対して、そして自分自身に対しての怒りが寡黙に漲っている。奇跡が起きない世界の中で、子どもたちが自らを助けるために何をすべきか。互いの存在を親身になり意識することが救済となるのか。そんな気持ちが渦巻いて、呼吸が苦しくなるような読書でした。ところで、自分が人に向けている視線を、冷静に意識することから始めなければならないのだけれど、自分が弱い立場にいるという前提からスタートすると、自分が人に向けているものより、向けられている方を意識してしまうものです。大抵の人は無神経であり、平気で人を傷つけるという思い込みは自分にもあります。それでも、自分から意識して誰かに暖かいまなざしを向けるということを考えます。本当は意識などせず、ナチュラルに人を思いやることができたら良いのだけれど。自分も優しくはないなと思うところですが、もう少し、なりたい自分になりたいものです。独善的な大人や身勝手な同級生という、無神経な仮想敵が物語上は存在します。傷つける側にいる人たちは、どんな正しさを信じ、何に葛藤しているのか。視野を広げていくと、そこも見えてくるものかも知れません。一見、無神経に感じてしまう人であっても、その心の裡は底知れないものです。誰もがなんらかの弱者である可能性を意識することも考えさせられました。その時、世界はもう少し広がるかな、とも。