出 版 社: 求龍堂 著 者: デイヴィッド・ヒル 翻 訳 者: 田中亜希子 発 行 年: 2005年09月 |
< 僕らの事情。 紹介と感想 >
「ぼく」と「おれ」の距離感。この一人称の間には、ちょっとした距離を感じます。「おれ」を口にすることはなんとなく気恥ずかしい、というのが少年後期の実感です。根が真面目な子としては、なんとなくワルぶっているような感じもあって、しかも語尾に「ぜ」なんてつけてしまうと、いっぱしを気取っているように思えます。小学生の時間は、偽悪的に「おれ」じゃないと、あの教室を生き抜けない感じがあるのですが、自由選択権ができると、やっぱり「ぼく」の方がしっくりとくると思いました。ところで「ぼく」としか言えなかった僕は、「おれ」の威勢や闊達さ、強がりと裏腹にあるナイーブさに一抹の羨望を覚えていて、「ぼく」という枠で、自分をくくらざるを得ないことに失望がありました。「おれ」として精一杯、いきがって生きることへの憧れ。物語もまた、「ぼく」が、いつか見た「おれ」のことについて、「おれたち」ではなく、「ぼくら」の思い出として語ることに、込められる愛しさがあるのではないかと思うのです。さて、本編の語り手である「ぼく」ことネイサンは、「おれ」つまり、サイモンと親友です。サイモンの「おれ」さまぶりは、別に威張っているわけではありません。その頭の回転の速さで、気の効いたジョークをかっ飛ばし、そして、自分に降りかかってくる「憐れみのようなもの」もふっとばします。自分を特別なところに置きざりにして欲しくない。同じ場所にいさせて欲しい。サイモンの心の渇望を、ネイサンは傍らで見続けています。大きなハンデを背負わされた友人を、憐れむことなく、そして、その運命の痛みを静かに見守りながら、一緒に時間を過ごしていく。「おれ」は「おれ」、「ぼく」は「ぼく」の時間。十五歳。それぞれが自分の人生を闘いながら生きています。
大人になるまで生き続けることができない。将来の夢など語れない。サイモンが背負った病気は、遺伝子の異常による業病。筋ジストロフィー。その病気が発覚してから、今日にいたるまで、ゆるやかに病状は進行し、緩慢な死がサイモンを襲い続けています。全身の筋力がおとろえていく。自由を失っていく手足。歩くこともままならず、電動車椅子の補助がなければ、移動することもできない。誰かの手助けがなければ、日常生活を送れない。そして、きたるべき日をいつも思いながら生きている。だけれど、「おれ」としては、ここで悲しんでもらいたくない。憐れんでもらいたくない。自分が長く生きられないことだって、気のきいたジョークにしてしまえる。「ぼく」らは、そんなサイモンが好きで、サイモンの心を、サイモンの家族の気持ちを察しながら、それでも、今、この時間を一緒に楽しくやっている。仲間同士の冗談、女の子たちの噂話、そしてゲーム。かならずサイモンは一緒だ。どんなときも、サイモンを入れないわけにはいかない。口が悪くて、根性が悪くて、毒舌家で、そして、最高に面白い、めちゃくちゃいいやつだから。 サイモンを見て悲しんではいけない。皆、涙をこらえて、サイモンのジョークに笑う。「ぼく」は、世の中の不公平を思う。サイモンが何故、生きられないのか。沈黙のうちに、耐えているサイモンの家族たち。その心の痛み。「ぼく」はなんて言ったらいいんだろう。病状が進んでいってしまうことへの怒り。サイモンは、怒りを笑いとばす。それでもその目に写ったものが「ぼく」には見える。奇跡は起きないまま、人生は続いていく。『またな、サイモン』。また、明日会おう。くだらない新聞の見出しを見て笑おう。好きな女の子にどうやって近づくか考えよう。な、サイモン・・・。
実に奥行きを感じさせる作品であったと思います。涙は、痛みを訴える言葉にではなく、その痛みをこらえて微笑み、沈黙を守る姿に誘われてしまいます。ネイサンや、そのクラスメート、先生、それぞれ家族たち、サイモンの周囲にいる人たちの、痛みを感じている心が、台詞と台詞の隙間から、心に突き刺さってくるのです。そして、病気に対して、なにもできない無力にうちひしがれながらも、一緒に生きることのできる今、を共に過ごす大切さを、感じさせてくれるのです。気軽なジョークで応戦しあう少年たちの日常がたまらなくいとおしく、そのユーモアは、心を和ませてくれました。サイモンと過ごした輝ける時間。是非、この本を読んでください。忘れられない「おれ」が、そこにいるのです。