出 版 社: 理論社 著 者: 灰谷健次郎 発 行 年: 1974年 |
< 兎の眼 紹介と感想 >
スモッグや煙霧で、一日中、どんよりした工業地帯にあるS小学校。学校のすぐとなりには町中に灰をまき散らし続ける塵芥処理場があり、いつもそこからは猛烈な煙と臭いが噴き出しています。S小学校には、その処理場の中の作業員長屋に住む子どもたちも多く通っていました。鉄三もその一人。普段は誰ともしゃべらない大人しい子。それが突然、教室で飼っていた生きたカエルをふたつに引き裂き、暴れだして同級生にも怪我を負わせてしまったのです。大学を卒業して先生になったばかりの小谷先生は大きなショックを受けます。理不尽な暴力や、破天荒な問題行動。でも、それにはちゃんと理由があったのです。鉄三の突然の激しい怒りの爆発はなぜ起きたのか。小谷先生は塵芥処理場の鉄三の家を訪ねて、その理由を知ることになります。両親がおらず、祖父と長屋で貧しい暮らしをしている鉄三。友だちのいない鉄三が心を許していたのは、塵芥処理場にいる野良犬とハエだけでした。鉄三は自分の可愛がっていたハエをカエルに与えた同級生や、ハエを食べてしまったカエルが許せなかったのです。ハエだけが友だちだなんて・・・・・・。新米の小谷先生は、そんな子どもたちの心の奥にあるミクロなものと触れあっていくことで、思ってもみなかったような世界を知ることになります。
問題児としか思われない子ども。本当はその子の抱える問題の方を解決してあげなければならないのに、大人は簡単に片づけてしまいます。無意識で疎外して、世の中から追い落としてしまうのです。無自覚の拒否反応。避けられてしまう側にいる子どもたちの、その視線に降りていくことは並大抵なことではありません。キレイごとを並べるだけではなく、実践していくには相当な覚悟が必要です。小谷先生は塵芥処理場の子どもたちに歩みより、さらには「ちえおくれ」の重度の知的障がい児をあえて自分の教室に迎え入れます。学校や、保護者に反対されながらも、自分自身の道を進みはじめる小谷先生。医者のひとり娘で、なに不自由なく育ったお嬢様で、教職について早々、年上の恋人と結婚したばかりの小谷先生は、世間知らずの苦労知らずで、自分で何一つ決めるということをしてこなかった人です。そんな彼女が、壁にぶつかりながらも成長していく姿が鮮やかに描かれていく力強い作品です(ちなみに映画化された時には檀ふみさんが小谷先生を演じたそうですが、あーなるほど、という感じのイメージでしょうか)。
かつて、時代の大きな力に傷つけられた大人たちは、若い小谷先生に語りかけます。生々しい戦争の傷跡に苛まれながら、痛みを今も感じている人たち。大きな声を持たないまま、それでも優しく周囲を照らしている人たち。そうした人たちが、過酷な世の中をひっそりと生き抜いている姿を小谷先生は知ります。沢山の人たちの幸福のためには、弱く小さいものなんて切り捨てなければならない。でも、それではいけないのだと、それは人間としてはダメなのだと、この物語は強く訴えかけます。大多数の「排除する側」ではなく、少数の「排除される側」の立場に寄り添い、不利な戦いを続けること。熱い想いを訴える長台詞は、心ない良識的な大人の胸を撃ち抜く弾丸です。ここにある抵抗と怒り。小谷先生は教員ヤクザと呼ばれている足立先生たち仲間ともに、塵芥処理場移転で強制移住させられる子どもたちのために戦います。いつ、どんな時でも「切り捨てられる側」に立ち続けるというスタンス。ややエキセントリックすぎるきらいはあるものの、力強く心を揺さぶる力のある作品です。僕にとっては自分の子ども時代のリアルタイム小説です。功利主義的な社会に翻弄され続ける子どもたちの小さな心への温かい視線。子どもの心のミクロな波動を捉えるのは教育者である灰谷健次郎さんのまなざしだからこそと思います。しかし、秀逸な文芸作品ではあるものの、この「断固たる戦闘姿勢」には抵抗を感じる読者もいるのかも知れません。とはいえ、それこそが、ザ・灰谷健次郎、です。現代においても児童文学は無条件に子どもたちのサイドに立って戦えているのか。現代の子どもたちの方が、あの光化学スモッグの時代の子どもたちよりも色々な面で恵まれた環境にいるのだと思います。しかし、見えないところで本当はもっと大きな危機にさらされているのではないかと、その危険性を思ってしまうのです。現代の児童文学は子どもたちのために、これからどんな戦いを挑んでいくのでしょうか。