千に染める古の色

出 版 社: アリス館

著     者: 久保田香里

発 行 年: 2022年09月

千に染める古の色  紹介と感想>

高校生の頃、古文の教科書で『更科日記』の冒頭部分である「門出」の章を読んだ際のインパクトはとても大きかったものです。十一世紀のはじめ、京の都から遠く離れた東国(関東)で田舎暮らしを送る少女が、源氏物語に対する憧れを募らせて、なんとかして読みたいと懸命に思案する愛らしさは、後の少女小説や児童文学の主人公のめいた印象を与えられました。千年も前の古典の中の人をこんなにも活き活きと等身大で感じられたこともなかったかと思います。また源氏物語が刊行されてからそれほど経っていない時代であるはずなのに、その評判や写本が出回る速さなども、当時においても源氏物語がいかに訴求力のある作品であったかということも伺えます。『更科日記』の、少女時代の物語の世界への憧れ、そこから大人になっての現実での苦衷など、後に全編を読んで、次第に失意に沈んでいく作者の生涯に感慨を覚えたものです。そのギャップも感慨深いわけですが、ここはやはりあの物語世界への少女の純粋な憧れを愛でたいものです。晩年になってもそんな気持ちを胸に灯していた著者の、十世紀が経過しても色褪せることがない清心な感覚。本書もまた、源氏物語の世界に憧れる平安ガールたちを描いた物語です。源氏物語の恋愛模様やもののあはれへの思い入れもさることながら、彼女たちの物語に登場する衣装などの服飾への興味関心には、読んでいるこちらもまた胸躍るものがありました。物語の世界へと向けられる憧れのまなざしだけではなく、乳母日傘で大切に育てられた高貴な姫君が自我に目覚め、失意を越えて決意を胸に抱く、そんな成長の兆しも快い美しい物語です。 

治安三年(1023年)。右大臣藤原実資の娘である千古(ちふる)は十三歳。姫君として側近の女房や女童にかしずかれて何不自由なく暮らす千古は、無聊を持て余していました。成人の儀式である裳着を控えた十三歳の身としては、行いを慎んで大人びた振る舞いをすべきですが、小野宮の屋敷に閉じこもってばかりの暮らしはやはり退屈なのです。そんな折、屋敷の庭を垣間見ようとする見知らぬ受領(国司)の娘、上総(かずさ)と千古は親しくなります。この庭と源氏物語に登場する六条院が重なると語る上総は、物語の世界に強く憧れていました。源氏物語の熱烈なマニアである上総の熱に当てられて、千古は物語に出てくる襲(かさね)を、そのとおりに作ってみたら面白いのではないかと考えます。そこから千古は衣服の織物や染料に興味を持ちはじめます。何分、姫様なのですから、何もしなくてもすべてを用意してもらえます。でも、待っているだけではつまらない。もっと知りたいという気持ちが千古にわきあがってくるのです。そんな自分自身に慄きながら、千古は染めもの工房に出入りするなど、姫様らしくない行動を始めます。上総を歓ばせようと源氏物語の衣装の世界を再現していく千古。色はどのように染められるのか。染師たちの話を聞き、その秘訣を知りたいと千古は探究心を募らせていきます。一方で千古の裳着の準備が行われ、同時に縁組も進められていきます。千古にも密かに想いをかける相手がいて、その気持ちも揺れています。草木染めの技法を知り、染師が、かくされた色を草からひきだす真髄を知り、千古は何を思い、何を見いだしたのか。自分では何もしなくても良いはずの姫君が、自分の意思を持ち未来を模索していく。そんな心の目覚めが、美しい衣服の色彩の表現とともに物語られていきます。

このお話のフィナーレは、源氏物語の場面を再現しようと、千古が女房や女童、乳母たちとともに衣服を着飾る場面です。ただ衣装を着て、音曲を奏でるだけのイベントなのですが、さながら源氏物語ファンたちによるコスプレパーティーの趣もあります。そんな羽目を外したお楽しみの裏には、貴族社会の中で自分の意思で自由に行動できない姫君の苦衷も伝わってきます。女性がただ心の赴くままに生きられる時代ではありません。それでも趣向を凝らして着飾り、美しいものに憧れることで、人は誇らしくあることができる。千古の心映えが清々しく、瑞々しい物語です。平安ガールといえば氷室冴子さんの『なんて素敵にジャパネスク』や『ざ•ちぇんじ』(好きでした)を思い出すところです。時代背景の有職故実や風俗のゆかしさもさることながら、あの不自由な時代を闊達に生きる姿が良いんですよね。過去の時代を借景にしても、ガールたちのメンタリティは書かれた時代が反映されます。千古姫もまた現代の子であり、現代のガールたちの共感を得られるのではないでしょうか。それにしても受験生だった当時は山川出版社の日本史用語集を端から執拗に暗記していて、藤原家の系図だって把握していたものを、今となっては、記憶の残骸しか残されておらず、検索しながらやっと追いついております。このおさらいもなかなか楽しいものです。