ペイント

Par-Int.

出 版 社: イースト・プレス

著     者: イ・ヒヨン

翻 訳 者: 小山内園子

発 行 年: 2021年11月

ペイント  紹介と感想>

2020年代に入って、よく使われるようになった「親ガチャ」という言葉に疑問を感じてしまうのは、親子の縁はクジ的な偶然ではなく、もっと必然的に決まるものだと思うからです。そもそも、その両親から生まれたのでなければ遺伝子的に自分は自分ではないはずです。どんな家庭環境で育つかは、親の経済的成功や人間的気質によるところは大きく、そこには運による巡り合わせの幸不幸もあるでしょう。なので親ガチャというよりは、もっと大きな運命の荒波に人間は翻弄されているのではないかと僕は思っています。とはいえ、もし親が違ったら、自分は違ったのか。それもまた大いなる命題です。人はそれぞれ運命の子であり、制約条件の中で自分の生き方を模索するしかありません。与えられたものと与えられなかったものはあるものの、そこから何を自分自身でつかむかが肝心ですが、そこで発揮される前向きな資質もまた親次第なのか。この物語は近未来の韓国で「親を自分で選べる」ことになった子どもたちの物語です。その選択権は、あらかじめ親から捨てられた子どもであることとセットではあるので、その権利を持っていることが幸か不幸かはわかりません。子どもたちは自分の未来にとって何がベストな選択かを考えます。親を持たないという選択もあるのです。親とはなにか。家族とはなにか。特異なシチュエーションの中で、子どもたち自身が考えていくメタ親子の物語。主人公が出した結論と、その決意に至るプロセスに魅せられます。チャンビ青少年文学賞受賞作。

ペイント。それはNCセンターの子どもたちの間での隠語で「父母面接」のことを示します。NCセンターは、国家が作った、親に望まれなかった子どもたちを国が預かり養育するための施設でした。子どもを欲しがらない人が増えた世界で、少子化対策のために、国はそうした子どもたちを預かり、責任を持って育てることを標榜しました。NCセンターの子どもたちは、養子を求める夫婦との父母面接を行い、両者の合意が成立すれば、晴れて親子として暮らしていくことになります。その時、子どもたちはNCセンターで識別されていた、記号めいた名前と、ここに在籍していた履歴を消されて、新たな名前で生きていくことになります。逆に二十歳までに、養子縁組が成立しなければ、生涯、NCセンター出身者として、世間から色眼鏡で見られることになります。かつてNCセンター出身者の犯罪事件があったせいで、その風評は芳しいものではなく、子どもたちはいち早く親を決めたいと考えペイントに挑みます。この物語の主人公、ジェヌ301は十七歳。彼にはNCセンターの退所まで、あと二年と四か月しか残されていません。かといって積極的にペイントを行うことを望んではいない。賢明な彼は、面接希望の大人たちを冷静に見極めてしまうために、辛口の点数をつけ、イージーには話を先に進めることができないのです。そんな彼がペイントすることになったのは、施設の職員からも断っていいと言われるような異色の夫婦でした。体裁を取り繕わない彼らの態度にジェヌは不思議と惹かれていきます。面接回数を重ねながら、ジェヌは何を思い、どんな結論を出したのか。子どもが親を選べる世界で、親子とは何かを少年は模索します。

あらかじめ親という存在との「しがらみ」がないのが、NCセンターの子どもたちの優位点であり、淋しさです。実の親子であっても、また実の親子であればこそ、摩擦は起きるし、愛憎が生まれます。物語はジェヌの在籍するNCセンターのセンター長のパクの家族の問題を、ジェヌに垣間見せます。誰よりもセンターの子どもたちを大切にした愛情を注いでいるパク。この物語は、普通の家庭に育った職員たちが、施設の子どもたちに向ける眼差しも注目点です。親に虐待されて育ったパクは、今、末期の親を看取ることに葛藤しています。実の親であればこその愛憎を抱えたパクの姿にジェヌは何を思ったのか。親をずっと決めることができなかったジェヌが、どんな親を選ぶか、ということと、その親にとって自分がどんな子どもになれるか、ということが実は不可分であると思っていたことに終盤、気づきを得ます。あるべき親子関係という正解の出ない問いを考えさせる、実に深い物語です。さて、この物語の背景に、出生率が上がらない国家の窮状があります。子どもを産んでも、育てなくても良い、後は国が面倒を見るから、という、「異次元すぎる少子化対策」が実施されている韓国の近未来が描かれています。NCセンターの職員は献身的で質が高く、制度や運用ルールもしっかりしており、子どもを引きとった家庭には支援金も供される仕組みであるためフォローも手厚く、この制度、一見、隙がないのです。問題は倫理観や道義性との軋轢です。元々の韓国の国情の中で、この物語がもたらした衝撃について想像が難しく(儒教的な孝の意識の程度であるとか)、一概に日本に置き換えて考えられないところが、海外作品と向き合う魅力でもあるなと思っています。登場人物たちの「根底にある親子観」を理解するためには、もっと多くの韓国作品を読まないとならないだろうなと思いました。韓国ドラマの日本版などの制作の際も国情の違いをどう越えるかが課題なんでしょうね。