出 版 社: 講談社 著 者: 河合二湖 発 行 年: 2015年03月 |
< 向かい風に髪なびかせて 紹介と感想>
純心で無垢な聖性を少女に求める男性はキモチワルイ、というのが現代(2023年)のジャッジかと思います。どうか自分の美しさに気づかないでおくれ、的なことを少女に願う詩があったかと思いますが、まあ、大時代の戯言と見なされるでしょう。あの「おごりの春」の美しさを謳った歌集の刊行からだって100年以上経っているわけですから、少しは目を覚ますべきなのかも知れません。「自分の美しさに無自覚な少女」なんて幻想をロマンとして語り、美しさを謳歌したい女性の本性を認められない男性の偏狭さをみっともなく感じる、そんな現代になっています。とはいえ、リアル少女たちのむき出しの自我は、なかなか手強く、獰猛であり、そこにどんな感情を抱くべきかは考えさせられます。それは逞しくも頼もしくもありながら、幸福そうにも思えないからです。社会の偏見や抑圧に負けず、誇らしくあれ、が暫定的正解かと思っていますが、少女自身の持つ傲岸の棘や偏見の刃が誰かを傷つけているとしたら、それをどう受け止めるべきか。そして、その切っ先は自分自身をも傷つけているのです。本書は「見た目」を意識する中学生女子四人を主人公とした連作短編です。それぞれ連関する物語は主人公の視点を変えながら進行しますが、いわば「人は見た目が九割」の世界線で翻弄されている女子たちが描き出されます。物語の振幅は大きくはなく、その価値観をひっくり返すような番狂わせも起きません。可愛いことが正義であり、その真理はゆるがないのです。虚をつくような小さな気づき程度では、この世界の価値体系が変わることがないからです。美人や可愛い子は大切にされ、そうじゃない子はぞんざいに扱われ、時に深く傷つけられる。自ずと、見た目こそが一番大切なものだと思うのは必定です。それなのに、見た目だけを評価されることにも疑問を感じてしまう。ただ顔が好きだと言われても、素直に喜べないのが複雑なところです。本当に求めるものは何か。この二重拘束と女子たちはどう対峙していくのか。この世界線とスウィングできなくなった時、どんなリズムを刻めば良いのか。答えは書かれておらず、読み終えても途方に暮れるばかりで、首肯できないが、納得せざるを得ない、という苦さがここにあります。では自分は何を尊ぶべきなのかという、その答えが自ずと導かれるような示唆に富んだ考え深い物語でです。言葉もなく訴え続ける声に耳を傾けたいところです。
中学二年生の女子、小春(こはる)は、一年生の頃から、同学年の六輝(むつき)とつきあっています。六輝は、はじめて小春の見た目をほめてくれた男子です。六輝の前でもっと可愛くいたいと思う小春ですが、六輝は小春が着飾ることもアクセサリーをつけることも嫌がります。小春にそのままでいて欲しいという六輝は、小春が美しい同級生である長谷川さんから可愛いと褒めてもらったことを話をしただけで不愉快になります。ちょっと天然の小春も、次第に六輝が、自分に理想の少女を重ねているだけで、小春の気持ちになど興味がないことに気づきはじめます。一方で、小春はクラスの中で浮き上がっている、長谷川さんの存在が気になります。美しいのにみんなからどうして避けられているのか。物語は、その長谷川優貴(ゆき)に主人公のバトンを渡します。交通事故で父親を亡くし、その事故で自分も腹部に大きな傷を負った優貴は、美しい顔に反して、自分が醜い傷跡を隠し持っていることを気に病んでいます。クールにそっけなく振る舞ってしまうのも、そのためかも知れません。その美しさを妬まれることもあり、人との関係性を歪に意識しがちな優貴は、小春が寄せてくれた友情におそるおそる近づき、クラスの他の女の子たちとも付き合うようになっていきます。三人目の主人公は、小春と優貴とも親しくする同級生の夢美(ゆめみ)。地味な顔で家ではずっと可愛くないと言われ、学校の友達にも引け目を感じています。だからこそ可愛いへの憧れが強い夢美は、知り合いの可愛らしい大人の女性、まひろさんの影響を受け、派手なファッションにチャレンジしてみるものの、友だちからは、無理をしていると言われてしまい失望します。まひろさんみたいになりたいと思っていた夢美は、まひろさんもまた人に傷つけられていた過去があることを知り、今をどう生きるかを見つめ直していきます。そして、物語は、夢美の友だちで、まひろさんの姪である野乃(のの)に行き着きます。なんでもよくできる子だけれど、あごが突き出た容姿は、男子から本気で「ブス」という言葉を投げつけられてしまう。夢美はそんなのは耐えられないと思いますが、実際、野乃もまた、限界を迎えていました。野乃は、あごの形を変える整形手術を受ける決意を固めていきます。他の女の子たちに比べて損をしてきたと自覚のある野乃。男子からの理不尽な扱いや、女子の残酷な態度、多くの無神経さに、野乃は失意を覚えていました。手術を受けるためには両親を説得しなければなりません。苦しみを訴える野乃の言葉を、娘とそっくりな顔をした父親はどう受け止めたのか。周囲の無遠慮な視線に傷つけられる少女たちは、それぞれ真摯に求めているものがあります。それは美しさや可愛さを手に入れること、に仮託された幸福を求める祈りと願いです。実にろくな男が出てこない荒野です。この価値観の世界線でタフに生きる、向かい風に髪なびかせる少女たちにエールを送りたくなるはずです。
子どもたちのルッキズム(見た目至上主義)が日本で問題視されるようになったのは、本書の刊行から何年か経ってからではあるのですが、これも新しくて古い問題です。パッケージすべき言葉が見つかったことで、ことさら意識されるようになったものだろうと思います。その美的感覚の変遷はあれど、恐らくは太古から人類を焦がし続けてきた難題です。美しさをリスペクトしたり、羨望の眼差しを向けるだけなら良いのですが、人を見た目で侮り、人権を無視するほどの扱いを与える非道さも、見た目が良くないからで、まかり通ってしまう。その切実さは、遠慮会釈のないフルコンタクトの子ども同士の関係性でマックスとなります(もっともそんな風潮を継承してきたのは大人です)。最後の物語での、問題の解決策として、美容整形という手段が浮上しますが、倫理的な障壁が立ち塞がってしまうのが日本の現状です(韓国では美容整形に対する抵抗がないと聞いています)。最終話の主人公である野乃が美容整形を決意したことを、物語の倫理観は肯定するのかどうかが大きな分かれ目だろうと思っていました。ここで美容整形に向かう中学生の背中を押すのか。世の中の上っ面の化けの皮を剥ぎ、鋭くえぐってきた物語としては、この結末はやや不自然で、新時代のセンセーショナルな問題作になり損ねた気がします。人間、顔じゃないよ心だよ、なんておためごかしを言わない潔さを感じていただけに、突然、ブレーキ踏んだような未消化なものが残りました。逆にそれが時代の壁であり、その壁に押しつぶされている抑圧が表現された結末だと言えるかも知れません。この世界がもっと自由になった頃、読み返して、この頃を憐れみたいものです。そういう未来に近づけないとな。