サンダーレの夢

マンホールの少女
Tra¨ume wohnen u¨berall.

出 版 社: 合同出版

著     者: カロリン・フィリップス

翻 訳 者: たかおまゆみ

発 行 年: 2008年04月


サンダーレの夢  紹介と感想 >
世界的に有名なストリートチルドレンのメッカ、ルーマルニアの首都ブカレスト。かつての政治情勢の余波で人口が増え、もはや養えないと親からも見捨てられ、街に飛び出した多くの子どもたちは、住む家を持たず街頭生活を送っています。それがストリートチルドレン。その数は、数千から一万にのぼるとも言われているそうです。窃盗や売春、薬物の吸引など、ストリートに住む子どもたちの生活は荒み、その子どもたちが若くして産む子どもたちもまた、同じスパイラルの中を生きることになります。これを「社会現象」として捉えるのではなく、そこには一人一人の傷ついた子どもたちがいる、と考えると、その絶望の累積は果てしなく巨大なものとして感じられます。この物語の主人公、サンダーレは16歳の女の子。ブカレストの街に住む、ストリートチルドレンです。排水溝の中で生まれ、父親の名前も顔も知らない。妹と一緒に母親に見捨てられ、預けられた家では性的暴力を受け続け、やがて路上に放りだされたという悲惨な生い立ち。それでも、こうした子どもたちを支援する団体もあって、一時的に食事や寝所、医療を与えてもらっています。また、小さい子どもたちであれば、さらに学校に通える施設にも移ることができるのです。不幸のスパイラルから脱出するためには、教育を受け、ちゃんとした仕事に就けばいい。でも、一度、深く傷ついてしまった心は、ある程度の施しを受けても、将来への希望をつないでいくことができないのです。それでも夢はある。自分を捨てた母親と、もう一度一緒に暮らしたい。離れ離れになったものの、ちゃんとした教育を受け、獣医を目指している妹に期待をかけながら、サンダーレは、ストリートを徘徊し、ゴミを漁りながら、その日の食事にありつくことにも精一杯な毎日を送っています。そんな彼女が、若い旅行者のカバンを盗んだことで、俄かに物語は展開し始めます。生まれつき、あまりにも多くの痛みにさらされすぎて、痛みに無自覚にさえなっているサンダーレ。不思議とあっけらかんとして、ささやかな出来事に笑うこともできるけれど、その心に抱えた絶望はとても深い。ちょっとした風向きひとつで命を落しかねない、そんな脆弱な運命。読み終えた後に、深いため息をついてしまう。この世界で絶望に沈む子どもたちに、どんな言葉が有効なのだろう。人が幸福になるとはどんなことなのかを考えさせられる作品です。これは、多くの人に、是非、読んで欲しい一冊ですね。

特に印象に残ったのは、こうした子どもたちの感情表出のいびつさです。常に怒りはある。悲しみもある。しかし、怒りをぶつける相手はどこにいるのか?。暴力で対抗することで、より自分に不利になることもある。どうしていいのかわからないまま、自分を傷つけ、血を流す。それが最大の抵抗。珍しく人にほめられた子どもが、これまでに誰からもほめられたことがなかったため、どうしていいのか分からなくなってしまい、奇行に走ってしまう。普通に怒ったり、普通に喜んだりする、あたりまえの感情のコントロールさえできなくなっている状態。サンダーレも、恋人から受ける暴力を、ただ漫然と受け入れてしまう。親から捨てられた悲しみや貧しさへの怒り、これまで、大人たちの罵声や怒号の中で蔑まれてきたことで、正常な感情を破壊されてしまっているのです。それは悲しい適応力。もっとも痛みを感じるべき場面で、サンダーレの心は敏感に反応していません。それは、救いであったのか。深く突き刺さる痛みが、言葉にならないのか。物語は、ドイツから奉仕活動のために来た裕福な青年、歯医者の息子であるマルティンを配することで、より交錯した視点を読者に与えてくれます。かたや自分スケールの悩みに固執するマルティンと、そんな緩い悩みが、悩みであることも理解不能なサンダーレ。逆に、彼女が許容してしまっている世界が信じられないマルティン。こうした視点の交換が、両者の心の問題を対照のうちに対象化して、奥行きのある感慨を与えてくれます。慰めようもないことは世の中にあって、そんな目に遭っている人間に、どんな声をかければいいんだろうと、途方に暮れてしまう無力感にも苛まれる読書。この本を読むには、ちょっとした覚悟が必要です。合同出版さんは、これまでノーマークの出版社で、今回、初読みでした。ドイツ語作品に詳しい、たかおまゆみさんの訳と、人気の挿絵画家、佐竹美保さんの絵ということで手にとった作品ですが、なかなか手ごたえのある一冊でしたよ。

最近の僕の生活半径の中では、リアルな「社会の下層」が見えにくくなっています。社会の下層の最前線については専ら、本で読んだり、ルポで知るだけで、「感じる」ところが少なくなっています。この皮膚感覚のなさは、野暮な理想主義を生じがちです。実際、そうした人たちと触れ合った際には、「臭い」とか「見た目の凄さ」とか、直接、感覚に訴えるところのものの強烈さに気圧されました。で、思ったことは、やはり、この人たちと自分とは線を引きたいなと。差別はいけない、とか、人間には貴賎はない、なんてキレイごとを並べていた自分もまた、結局は、そういう典型的な分けへだてをする人間だったのかと思い知らされて、それもまたショックでした。今もまだ社会的道義心はあるし、理想としては、全ての人が幸せになりますようにと思うし、特に、子どもたちが、貧困の犠牲となって、命をすり減らしていく状況は耐え難いものです。でも、横に並んでいくことの難しさを、やはり感じてしまいます。この本のあとがきで、西側の裕福な学生たちが、ストリートチルドレンを支援する施設にボランティアとして1年間留学するというシステムの紹介があり、彼らが衝撃を受けて帰っていくという話が載っていました。実際、人間はどこまでボーダレスになれるものなのか。ボーダーの外側から経済的に支援することも必要なのだけれど、その心の傷に直接、手で触れ、手当てできるようなダイブができることの奇特さを思います。キレイごとでは済まされない現実に、どのような覚悟を持って立ち向かえるのか。そこまでは思い切れなくても、まずは、読書とともに、考えるだけでも、小さな一歩を踏み出せる気がしますが、どうか。

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