夏の約束、水の聲

出 版 社: 新潮社

著     者: 椎名寅生

発 行 年: 2023年07月

夏の約束、水の聲  紹介と感想>

半魚人と比べると、人魚はロマンティックなイメージがありますが、どちらも想像上の奇異なクリーチャーであって、多かれ少なかれ、異形のものではあるのです。まあ半魚人とは話が通じないだろうという前提ですが、人魚だったらどうなのか。知性や感情がある生物だとした場合、好意的な関係が築ければ良いものの、これが拗れると、余計にやっかいなことになりそうです。本書には、先祖が人魚を裏切り、仇をなしたために、代々、呪われている一族が登場します。その呪いを解くにはどうすべきか。そんな課題を振られることになった十五歳の少年が、勇気を奮う物語です。シチュエーションの妙があるとすれば、彼がローカルな島暮らしをしている少年で、そこに都会から同い年の可憐な女の子がやってきて、親しくなるというあたり。それが一夏の邂逅であることもわかっていて、少年は、自分と彼女とは「住む世界が違う」ということを、あらかじめ意識しているがゆえに、積極的に近づこうとはしていない。それはまた、環境を乗り越えるだけのものが自分にはない、という自信のなさのあらわれです。イージーに恋に落ちたりしないのが良いところですが、そこに甘美なものがあることも確かです。物語は、そんな少年が、彼女を救うために、決死の覚悟で「人魚」に挑むあたりが読みどころですが、ここにあるのが好意とか愛とかではなく、運命に自分を賭すことができるか、というチャレンジであるあたりが、十五歳の少年の夏の潔さです。

住民すべてが顔見知りという小さな島に暮らす辰水(たつみ)は、この夏休み、家族で営む民宿の手伝いをしていました。客の送迎もその仕事のひとつです。東京から一人でくるという予約客を迎えに桟橋に向かった辰水は、そこで、自分と同い年の中学三年生の少女、沙織(さおり)と出会います。一人で宿を予約してこの観光資源にも乏しい漁師の島にきた沙織は、辰水の両親には書道部の一人合宿なのだと言い張りますが、実はワケありであることを辰水は打ち明けられます。自分の両親が離婚を相談している状況に心を傷めている沙織は、家出をしてきたというのです。そんな強い意志を持った可憐な少女である沙織との距離を測りかねながら、島を案内する辰水は、沙織の気持ちを慮る巧いことも言えない不器用な少年です。さて、月明かりの下、一緒に夜の浜辺を散歩することになった沙織と辰水は、磯から少し離れた岩礁に、人魚らしきものがくつろいでいる姿を見てしまいます。人魚もまた沙織の姿に気づくと、探していた十五の娘だと、話しかけてきます。本能的に危機を感じた辰水は沙織を守ろうとすると、人魚は呪いともとれる言葉を残して海に消えます。それから沙織の身体に異変が生じます。鱗を帯び、次第に衰弱していく沙織。辰水は、友人の葵から、この諸島の旧家の末裔の十五歳の少女は、代々、人魚に呪いをかけられる宿命にあることを教えられます。沙織もまた、その旧家の血を引いていたことを辰水は知り、彼女を救うために、人魚と再び対峙しなければならないと決意します。葵と協力して、人魚の居場所を突き止めた辰水でしたが、ここで辰水は自分自身の価値を大いに問われることになります。果たして、狡猾な人魚と辰水は交渉して、説得し、呪いを解くことができるのでしょうか。

悪いのは、沙織や葵の祖先にあたる若い色男です。人魚を手ひどく裏切った男は、子孫が末代まで人魚に呪われるという禍根を遺すことになります。代々、呪われるのは十五歳の美しい娘ですが、その子を守るために、あえて代償を払う運命を引き受ける男子もいます。この代償を支払えるに足る人間かどうか、というところがポイントです。辰水は自分はなにも持っていないと思っています。秀でたところもなく、大きな望みもありません。とくに見るべきところもなく案内するまでもないこの島のように、都会から来た可憐な少女を前に、寡黙にならざるをえないのです。離婚しようとする両親に心を傷める少女に励ましの言葉などかけようもない。そんな自分に引け目がある。とはいえ、可憐な少女のフレンドリーさに気持ちが動かないわけがない。そんな自分の迷走する気持ちを、人魚に鋭く言い当てられるのです。ここで人魚は、いわゆる、魔女です。あさましい心の裡を見透かされるのは、少年にとって致命傷です。モテたいとか、女の子の前でいい格好をしたいと思っているのに自分に自信がないなんて不甲斐なさ。それを言い当てられたらお終いなのです。不器用でナイーブでデリケートな少年がナイトになるには、高いハードルがありますが、そこを越えていくあたりにカタルシスは生まれます。