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出 版 社: ポプラ社 著 者: 和泉智 発 行 年: 2017年06月 |
< 夏空に、かんたーた 紹介と感想>
合唱を題材にした物語で、男子の声変わり(変声期)について描かれる時、やや感傷的すぎる傾向があるのではないかと僕は思っています。当事者の男子としては、高い声が出なくなることよりも、声が低くなることの歓びの方が大きかったのではないかと感じているからです(個人の感慨です。高い声が気恥ずかしかったのだと思います)。とはいえ、ボーイソプラノとして自負があった方となると、高い声が出なくなることには、それなりの失意はあるのかもしれません。映画などで、歌い手の少年の声が突然出なくなる場面は、その失意も考えれば衝撃的です。たしかにドラマティックな題材ですが、概して女性作家さんの描き方には、やや変声期ロマンが加味されているのではないかと思います(和山まやさんの『カラオケ行こ』などが念頭にあります)。本書もまた、変声期を迎えた合唱少年の苦衷が描かれます。そんな少年をなだめすかすのが、大人になりきれない青年であるというあたりが読みどころかと思います。声変わりはしてもすんなりと大人になれるわけではないし、自分の中の少年を持て余してしまうこともあるものです。変わることを恐れず、変わった先にあるものを愛おしむ。本作のテーマは、変声期に限らない話なので、ジェンダーにこだわるところでもありません。身体や心の変化の季節に触れる示唆に富んだ物語です。変化していく自分らしさを愛し、活かすことと、合唱という個性をひとつに合わせる営みが矛盾しないのだと物語は訴えます。
小学六年生の女子、かのんは、地元の児童合唱団「かんたーた」に参加していました。一ヶ月後に開催されるコンクールを目指して練習中だったところが、指導をしてくれる若葉美奈子先生が急病で入院してしまい、このままでは棄権しなければならない状況に陥ります。思いついたのが、叔父の慎治に指導を依頼することでした。ヨーロッパでオペラ歌手として活躍していた慎治おじさんは、トラブルを起こし、日本に帰ってきて、姉である、かのんの母の元に身を寄せて一緒に暮らしていたのです。定職にはつかないまま、飲食店でリクエストにこたえて歌を唄うアルバイトをするだけの日々。しかも余興で女装をして歌ったりと、どうも、かのんから見ても立派とは思えないふるまいですが、プロの歌手だったことはたしかです。当初、合唱団の指導に乗り気ではなかったものの、かつて「かんたーた」のメンバーであり、先生に恩義のある慎治おじさんは、子どもたちの熱意にも刺激を受けて、指導を引き受けることになります。さて、かのんの友人である奏太(かなた)もまた、なんとか今回のコンクールに出たいと願っていました。奏太は変声期を迎えようとしつつあり、自分が高い声で歌えるタイムリミットを見据えていたのです。声変わりとなれば、他のパートに移らざるをえず、主旋律を歌えなくなってしまう。自分のポジションに固執する奏太を諌める慎治おじさんもまた、歌劇で声質にあった役へ変更を命じられた時に、演出家とケンカして帰国した過去があります。そんな大人げない大人である慎治おじさんは、子どもたちの個性を伸ばす独特の指導法で「かんたーた」をコンクールへ、そして合わせて唄うことの歓喜へと導いていくのです。
本書もまた「叔父さん」ポジションの人物と子どもの関係を描いた物語です。両親とは違ってリベラルで常識にとらわれない訓導を与えてくれるのが、こうした人物の良いところです。本書の叔父さんは、達観タイプではなく、大人げない界隈の人です。とはいえ、そうしたアウトローが与えてくれる効用もあるもので、正しくない大人の生活と意見も役にたちます。慎治おじさんは、姪の、かのんだけではなく、奏太や他の子どもたちにも近い目線で歩みよります。兄貴的存在も思春期には必要なものであり、かつての少年だからこそ、通じ合えるものがあるやも知れません。大人としては、変わっていくこと、つまりは成長を促す役割ですが、叔父さん自身がモラトリアムに陥っている状態なので、いささか説得力がありません。しかし、叔父さん自身が進行形であり、彼が変わっていくこともまた物語の焦点となります。人は状況に応じて変わっていかなくてはならない。けれどそれは自分になっていくことだと。YA作品は成長期の身体的変化を受け止めなければならないものですが、「声」もまた大きなファクターです。児童合唱はジェンダーレスかと思いますが、成長に従い、声の高低差が生じ、混声合唱としての広がりが生まれるものかと思います。自分が変わっていくことをどう受けとめるか。そして、自分の周囲にいる人たちも変わっていくのです。その声を耳をすませて良く聞き、声を合わせていくという営みが、合唱を題材にした作品が醸し出す魅力なのだろうと思います。合唱というと均一を求められるという先入観がありますが、変わっていることを、それぞれが違っていることを前提として、それを大いに認め合いながら、声を合わせるという行為の意義を考えさせられます(だからこそ合唱は面倒なのだという僕自身の本音も漏れてはしまうのですが)。
