星屑すぴりっと

出 版 社: 講談社

著     者: 林けんじろう

発 行 年: 2022年08月

星屑すぴりっと  紹介と感想>

親が心を病んだとき、子どもはどうふるまったら良いのか、というテーマで児童文学作品を例証して評論を書いたことがあります(児文協から賞をいただいて、日本児童文学2018年7・8号に掲載されました)。このテーマには多くの示唆に富んだ作品があり、今も頻出するのは、人が心を病んでしまう時代が続いているからかも知れません。しかしながら、本書の心を病んだ親を持つ子どもの行動には、完全に虚をつかれました。人が心を病む事情は複合的です。自分の親も自分自身もメンタルダウンした経験があるので、その状態を一つの要因で割り切って語ることができません。事情は混みいっています。物語の中の子どもたちもまた、複雑な状態である親に対して、一途に気持ちを寄せながらも、ただ見守るしかないというのが常套です。実際、心を病んだ親とは適切な間合いを取らないと、子どももまた疲弊してしまうため、距離感が大切だと僕は思っています。ところで、本書はそうした総合的な判断を一蹴します。本書に登場する子どもは、心を病んだ親の仇をとろうとします。悪いのは父親を傷つけた同じ職場の人間だと狙い定めているのです。時代劇のように、決死の覚悟で親の仇討ちをする、というのはナンセンスです。本書もそうした復讐をストレートに肯定するものではありませんが、それでも、子どもがこの発想に行き着くのが凄いところです。親の仇をうつという行為については、賛否両論あります。ただ、人の心を強く揺り動かすラブの形であることは間違いありません。短慮だけれど、それゆえに愛おしくなるのです。この物語、色々な短慮が詰まっていて、そこが実に魅力的です。中学生男子たちがそれぞれのラブのために突っ走り、子どもだけの旅に出ます。そんな熱く向こう見ずな姿勢が心地よい、第62回講談社児童文学新人賞佳作受賞作です。

広島県尾道市に住む中学生男子、十三歳のイルキが、同級生のハジメと二人、京都へと日帰りの旅を敢行することになったのには事情があります。重い病気を患う歳上の従兄弟、星一郎が口にした、映画を見たいという言葉。通っていた大学の映画学科を病気のために断念した従兄弟がそう口にしたのには、強い思いがあるのだろうとイルキは考えます。星一郎が見たいという映画は何か。タイトルを口にしない従兄弟の気持ちをイルキは斟酌します。ヒントは、その映画は配信でもレンタルでも見ることができない作品であるということ。星の数ほども封切られる映画の中で、従兄弟が思い入れている作品とはなんなのか。かつて映画製作をしたいと映画学科のある関西の大学に進学した星一郎は、在学中に発病し、中退して地元に帰ってきて、今も治療法もないまま闘病生活を続けています。大好きな心優しい従兄弟を歓ばせたくて、イルキはその映画が何かを調べ、ついに、従兄弟が学生時代に脚本を書いた自主制作映画なのではないかということに行き着きます。折しも、京都で歴代の学生映画の上映会が行われることを知り、なんとかダビングして映画を持ち帰りたいとイルキは思います。この計画をサポートしてくれたのが友人のハジメです。普段、憎まれ口ばかりのハジメは、尾道に越してきて随分経つのに生粋の大阪弁でまくし立てる闊達な少年です。京都へと子どもだけで向かう。この計画を実現するために、ハルキは青春18切符の手配も抜かりなく行ってくれた頼りになるヤツです。イルキとハジメの京都への二人旅が始まります。お金がないので在来線を乗り継いで往復する十時間の長旅。この「いかつい挑戦」の旅の仲間となった二人の、不安ながらもワクワクするような思いが伝わってきます。そしてイルキは旅の途中で、ハジメの秘めた思いも知ることになります。ハジメもまたイルキと同じように大切な人への熱い想いを胸に抱いた少年だったのです。尾道弁と大阪弁の少年同士の口の減らないやりとりがどうにも楽しい、真っ直ぐでいじらしい物語です。

交通事故にも責任割合というものがあって、どちらがどの程度悪かったのか分析が行われて、補償等が決められます。自己責任は色々な局面で問われるものとはいえ、割り切れない思いもあります。ハジメの父親は工場の班長で、職場の軋轢で心を病みました。ここが難しいところですが、これには本人の資質の問題もあります、というのは一般論です。職場で傷つけられて働けなくなった人にも自己責任を求める正論なんて、子どもには知ったことじゃないのです。ハジメが父親のために戦い、無念を晴らそうとする行為は無鉄砲だし、褒められないものですが、こうありたい少年の理想です。イルキも従兄弟のために無茶をします。子どもだけで旅に出るのも、そこそこ危険な行為です。二人の少年の一途さと無償のラブ。彼らの根底にあるスピリットの潔さに、胸をつかれるのは、利己的な時代にそぐわない愚かな行為だからです。人を貶めようとする卑怯は許さない。限りなく人は優しくあるべし。誰かのために無償で心をつくすことが馬鹿みたいだと思われてしまう世情だからこそ、馬鹿野郎になってみてもいい。総合的に判断することなんて蹴っ飛ばして、一点突破するのです。肩で風をきる少年たちがどうにもカッコいい物語。大切な人、星一郎を想いやるイルキの心映えが幾重にも重ねられ、言葉として結ばれていきます。その心象がいじらしくてたまらないのです。ところで、ハジメの両親のやっているカフェの名前が「ふくねこホーニャ」で、これ何かに似ているなあと延々と考えていました。一旦、出た結論が「麦ふみクーチェ」で、これは渋いなと思ったのですが、後で冷静になって「オヨネコぶーにゃん」ではないかと。何が作者にインスピレーションを与えたのか正解はわかりません。「みつばちマーヤ」か「ミヒャエル・ゾーヴァ」かも知れません。