出 版 社: 東京創元社 著 者: クリス・ヴィック 翻 訳 者: 杉田七重 発 行 年: 2021年05月 |
< 少女と少年と海の物語 紹介と感想>
乗っていた船が嵐で遭難したことから始まる、海洋漂流や孤島漂着モノの面白さを満喫できる作品です。ピンチにつぐピンチ、予想を超えていく展開は、先を急いで読み進めたくなります。主人公が十五歳の少年であることも、多くのサバイバル児童文学を想起させられて期待も高まります。そして、圧巻のクライマックスには、この物語が書かれたこと自体の意味を考えさせられる不思議な感慨を抱かされます。危機的状況からのサバイバルを描くサスペンスとしてだけではなく、物語を物語ることについてのメタ物語として深淵を垣間見せてくれる物語です。またYA作品として、主人公の考え方の深化や成長も見どころです。孤独のうちに主人公が内省を深めることは児童文学系サバイバルものの魅力ですが、本書では一緒に遭難したパートナーの世界観を受け入れていくことが少年を大きく飛躍させます。イギリスの裕福で円満な家庭に育った少年は、良い意味で「お坊ちゃん」であり、過酷な世界をリアルに感じることのない人生を過ごしてきたはずです。人の悪意が渦巻く世界を生きてきた少女との出逢いと、凛然とした勇気を持った彼女と心を通わせる体験は、命の危険にさられた窮状だからこそもたらされたものかも知れません。他生の縁といいながらも、本来は交わることのなかったはずの点と点です。二人の出逢いが物語の誕生のきっかけであり、この一巻に結ばれたものが、すなわち、物語が示唆する「物語」であるという入れ子構造に陶然とさせられます。『星自体は空の光でしかない。星と星をつなぐ線が物語だってこと』だと少女は言います。自ら点と点を結び、線を引き、物語を見出すという行為によって、この世界で起きているすべてを物語にすることができる。それは残酷なこの世界を超えていくための処世術であり、魔法でもあったのです。
カナリア諸島から北へ十二海里。青少年セーリングコンテストへの出場を目指して、大型ヨットに乗り込んだ七名の少年たちの一人が、もうすぐ十六歳になる十五歳の少年ビルです。沖合で嵐に遭遇しヨットは転覆。ビルはなんとか手漕ぎボートで脱出できたものの、仲間たちの安否はわからないまま、一人、大西洋をさまようことになります。僅かな水と食糧で命をつなぎながら、救援を待つものの、時間ばかりが過ぎていく。遭難から三日目。ビルは海を漂っているプラスチックの樽と、そこに乗った浅黒い肌をした自分と同い年ぐらいの女の子を見つけます。彼女の名はアーヤ。やはり嵐で沈んだ、ヨーロッパに向かう船に乗っていたというモロッコ出身のベルベル人だと名乗ります。こうして二人での漂流が始まります。拙い英語やフランス語でお互いの素性を話し合うものの、どこかアーヤには秘密めいたものがあるとビルは感じます。一日、一日を生きのびるという例えから、シェヘラザードの話になり、その物語を知らないというビルに、アーヤがお話を聞かせるようになります。それはシェヘラザードの物語のようでありながら、ある寓意が込められた別のお話であるのですが、オリジナルを知らないビルは気づくことはありません。必死に海亀や魚を採り、なんとか命をつないでいく二人は、やがてカモメに導かれて孤島へとたどり着くことができます。そこにはやはり漂流者であるステファンという漁師を名乗る不穏な男が流れ着いて先住していました。アーヤは港でこの男を見かけたといい、人買いの仲間ではないかと疑います。緊張感を孕んだ三人での生活は長くは続かず、救援もこない中で、次の決断を少女と少年は迫られることになります。もう一度、ボートで海に漕ぎ出す。アーヤが胸に秘めた想いを知るビルもまた、この無謀な挑戦に挑む決意をするのですが、そこにはより過酷な前途が待ち受けています。
アーヤが語るシェヘラザードの物語と、アーヤ自身の秘密にされていた素性や、その過酷な体験がオーバーラップし始めます。軍隊同士が争い合う無情な世界で、暴力や略奪にさらされながら生き抜いてきたアーヤ。それは、イギリスの裕福で恵まれたお坊ちゃんであるビルには、あまりにも縁遠い世界の出来事です。アーヤが語る物語に込められていたもの。傲慢で強欲な王や、魔神。人は何を何を畏れ、何を武器に闘ったのか。そして真に大切なものとはなんなのか。アーヤが語る物語の寓意にビルはすぐに気づくことはありません。アーヤは物語を織りなすことで、自分の生きてきた過酷な世界を昇華させようとしていたのかも知れません。そして、ビルとのこのサバイバルもまたひとつの物語としてつなぎとめられるのです。人は夜空の無関係な光の点を結んで、物語を描きます。そこには祈りや願いもまた込められています。あるいは過酷な生に運命という物語を与えるのです。物語の先にはさらに、アーヤが安寧を捨てて、敢然と権力や横暴と闘う未来を案じさせます。それはまだ語りえない物語です。まずはビルとアーヤの『少女と少年の海の物語』を読んで欲しいと思います。それは過酷な命懸けの旅ありながらも、甘美で、胸をうつ愛の物語です。その物語の先に、また、まだ見ぬ物語の荒野が広がっています。イギリスの少年は、まあ、実に沢山のひどい目に遭うのですが、それでも彼をどこか羨ましく感じてしまうのは、ひとつの物語として、あの、いつか見た勇敢な少女との時間が繋ぎ止められているからです。いや、サメとの死闘は勘弁して欲しいものですが。