石を抱くエイリアン

出 版 社: 偕成社

著     者: 濱野京子

発 行 年: 2013年04月

石を抱くエイリアン  紹介と感想>

奇妙なタイトルです。正直、わかりにくいと思います。これはSFなのだろうか。なんでエイリアンが石を抱くのかと疑問に思うでしょう。タイトルで内容がわからないといけないという、あのジャンルであったなら、『エイリアンみたいな変わり者の同級生が原発の危険性を訴えていたのに日本がマズいことになった件。』あたりが妥当なタイトルかと思います。もっとも、長いわりには深みがないのは、寓意も暗喩もないからです。タイトルが何を暗示しているのかは、徐々にわかってくるものです。最後まで読み通して『石を抱くエイリアン』というタイトルに覚える感慨の深さが、そこにはありません。じゃあ、それもタイトルに含めて、感動のしどころを説明しておいた方が良いのではないか。『エイリアンみたいな変わり者で原発の危険性を心配していた同級生が、福島へ旅立った日に起きた大震災で行方不明になったんですけど。』だったら、その悲痛さも響いてくるのではないか。確かに、エイリアンのような、ちょっと変わった、真面目で一途な少年は、あの震災に巻き込まれます。彼の抱いていた石(意志)を継いでいくという主人公の決意が、この物語の焦点です。あの震災からまだ間もない、日本児童文学2012年3・4月号から連載が始まった物語。理不尽を人はどう受け止めたら良いのか。何も予期させない奇妙なタイトルこそが、燦然と輝き始める。そんな時を待つ読書の愉悦もあります。

市立高砂中学校三年B組で、一番早く生まれ、姉さんという愛称で呼ばれている八乙女市子(やおとめいちこ)。姉という文字が名前に入っていることもその一因ですが、男子からも話がしやすい気さくさもあるのかも知れません。あの阪神大震災があった1995年生まれの子どもたち。クラスでいち早く十五歳になった市子もまた、中学三年生として、自分の進路ついて悩みながら、希望の持てない日々を送っていました。成績優秀でもないし、とりたてて特技もないし、やりたいこともない、ごく普通の子である市子。同級生たちはどんな希望を持っているのかと聞いてみれば「公務員」や「正社員になりたい」など、夢がない答えばかり。そんな中で「日本一の鉱物学者になる」なんて言い出す男子、高浜偉生(よしお)は、かなりの変わり者です。クラスで浮いている、真面目だけれど、ちょっとダサいタイプ。男子としてはまったく寝ないもって魅力のない、そんな偉生に、突然、衆人環視の前で告白されてしまい市子は戸惑います。偉生の間の悪さに、自分だって選ぶ権利があるとお断りするものの、大いに鈍感な偉生は、市子に好意を寄せ続けます。日本太古の地層を一緒に見に行こうと誘そわれて、つきあってみれば、延々と鉱物のことを話し続ける偉生。まったくもって訳が分からない、そんな偉生が、文化祭のクラス企画として提案したのが、原子力発電についての研究発表でした。親族が原発で働いているという同級生は日本の原発は安全だというけれど、偉生はその危険性を訴えます。渋々、協力を始めた同級生たちも、偉生の熱意に次第に原発に関心を持ち始めます。放射能が半減するのにかかる時間は二万四千年。自然の地層の奥深くにそんな不純物が置かれることを危惧する偉生。原発について考えようという偉生の意志は少なからず、同級生たちに影響を与えます。やがて、教室が受験一色に塗り潰されていく季節を経て、中学校の卒業式を迎えます。その時点ではまだ進路が確定していない子もいたために、卒業後に再度、同級生たちが集まったのが、2011年3月11日。その集まりの帰りに、福島の祖母の家に行くという偉生を見送った市子は、わずか数時間後に起こることを予見することはできなかったのです。

非常に多くの固有名詞が登場する作品で、そのひとつひとつが、あの時間と結びついています。児童文学として長く読まれる汎用性を求めるなら、特定の時間域に物語を固定させることは推奨されないのでしょうが、この作品には、あの時間を繋ぎ止めることの意義があります。あの震災から十年以上が経った現在(2023年)です。人によって被害の度合いは違い、また心に兆したものも、必ずしも被害とは比例しないものでしょう。あの時に覚えた感情や感覚が、まだ強く熱を放っていた時期に書かれた物語に呼び覚まされるものはあり、それにどう向き合うかは、現在の自分の回復が問われている気もします。二万四千年と言わないまでも、心の痛みはいつ半減するのかと考えます。たまたま、あの日、前日に受けた手術の予後が良くなく、危篤状態であった父親がいる病院に向かう途中で自分は震災に遭遇しました。その翌日に父親は亡くなり、交通機関のマヒした東京で、葬儀の手配などをどうするかと途方に暮れていたことを思い出します。直接震災とは関係がないのですが、世の中の混乱と自分の混乱がシンクロして、やはり思い出したくない時間がそこにあります。人生の悲しみや痛みとどう向き合うか。大きなテーマですが、ここで克己心を発動させる必要はなく、動き出せるようになるまでじっとしているべきだろうと思います。1995年生まれの子たちが新卒の新入社員として会社に入ってきた時には驚きました。やはり阪神大震災やオウム事件の年の子ですから。既に転職した子もいます。この物語の主人公である1995年生まれの子たちも、存命であれば、人生のいろいろな局面を迎えているのであろうという感慨もあります。残された側は、意志を継ぎ、受け取ったバトンを持って走り続けなければならないと気負うものですが、そんな束縛からもいつかは解放されるのかもしれません。自分の中で大切に抱えていることの是非も当人次第ですが、踏み出すことの重荷にならなければ良いですね。死者と共生する方法、という難題について考えさせられます。死者を悼むことが、人が生きる力につながれば良いのですが。