出 版 社: あかね書房 著 者: クリス・クラッチャー 翻 訳 者: 西田登 発 行 年: 2011年02月 |
< 彼女のためにぼくができること 紹介と感想>
エリック・カルフーン、十八歳。あだ名は白鯨(モービー)。極端に太っていて、その巨体を中学時代から好奇の目で見られ続けてきたエリック。しかし、高校に入って水泳に打ち込むようになってから、その身体は自然とシェイプされてきました。しかも、大会でも好成績をおさめる、なかなかのスイマーになったのです。ちょっと気のあるそぶりをしてくれる女の子も何人かいたりして、自分に自信を持てるようになり、人目を避けてきた引っ込み思案な性格も変わってきました。それでもエリックは過食を続けています。消費カロリー以上に食べることをエリックは自分に課していました。エリックには、みにくいデブ体型を維持しなければならない理由があったのです。それは、みにくい者同士の連帯感のためです。自分の体形に萎縮して友だちのいなかった中学時代、唯一の友人として親交があったのがサラ・バーンズです。彼女は一目見て誰もが驚くような火傷を顔面に負っていました。それゆえに誰にも負けないタフなスピリットを持っている孤高の子でした。周囲からつまはじきにされた二人は、持ち前のウィットと毒舌を駆使して、地下新聞を発行し、自分たちを疎外する相手と闘ってきました。かつて自分を救ってくれた親友であるサラ。高校に入ってから、多少、距離は開いてしまったものの、サラとの友情を失くさないために、エリックはデブで居続けようと決意していたのです。今、サラは窮地に陥っていました。彼女のために、エリックには何ができるのか。クリス・クラッチャーの青春小説世界がガンガンと炸裂する好編です。
学校で突然に精神に変調をきたしたサラ・バーンズ。病院の精神科に収容されて入院したものの、ずっと心をとじて、誰にも反応しない状態となっていました。エリックはそんなサラのもとに日参し、何も言わない彼女に話しかけ続けていますが、反応は得られないままです。何故、サラはこんなことになってしまったのか。その謎を解く鍵は、彼女が幼少期に負った、顔の大きな火傷にあるのではないかとエリックは考えます。本当にスパゲッティを茹でていたお湯を自分でひっくり返して浴びてしまっただけなのか。エリックはその謎を解くために、彼女の過去をさかのぼり始めます。幼い頃に母親が出ていき、暴力で自分を支配しようとする父親に耐えてきたサラ。目を覚ますたびに、みにくい自分の顔を見て絶望する、そんな朝を何度も乗り越えてきたサラの鋼のメンタルが、どうして崩れてしまったのか。心無い悪口雑言に対抗するために尖らせてきた言葉のキバでも自分を守れなくなったのは何故なのか。突っ張り続けてきたサラの心のうちをエリックは知り、そして、彼女を守るために闘いを挑もうとします。クリス・クラッチャー作品でおなじみの、傲慢で偽善的なクソったれな大人たちと、過酷な状況におかれた子どもたちが、ギリギリのせめぎ合いを展開します。そして、自分の身を守ることを顧みず、カッコいい大人たちが無茶をしてくれる小気味良さもまた健在です。
思春期にデブでいるということ。ホルモン異常等の病理でなければ、自助努力によってデブは改善できます。逆に言えば「改善できない不甲斐ないヤツ」こそがデブだということです。などと痛烈に批判してしまうのは、自分が思春期をデブで過ごしていたからです。思春期にデブでいることは、中年期にデブでいることと意味が違います。キャリアも中身も経験もなんにもない時代に、外見がみにくくて、さらに、それを自分でなんとかすることさえできないという、失意のカタマリのようなオレになってしまうわけです。K.L.ゴーイングの『ビックTと呼んでくれ』は、そうしたデブ少年が奮起する最高のYA作品でしたが、この『彼女のためにぼくができること』では、デブのネガティブ期を抜け出た少年の次のステップが描かれていきます。つまり、デブの向こう側です。そこに何があるのかと言えば、中学生時代、闘うサラの後ろに隠れていた自分が、今度は矢面に立って闘おうという決意です。傍観者から当事者になるという決断を人間はいつかくださなければならないものです(いや、くださないまま引きこもるという裏ワザもあります)。思春期のデブであった無力で不甲斐ないオレは、決意のみなぎるこうした作品を、当時は読むことができなかったのではないかと思いもします。色々な決意がこの作品には描かれます。自分の誤りを認める決意もありました。確信犯としての決意もありました。保守的で腐った良識にケリを入れる、芯の通ったバリバリの作品。是非、この心意気を感じて欲しいところです。