ぼくがきみを殺すまで

出 版 社: 朝日新聞出版

著     者: あさのあつこ

発 行 年: 2018年03月

ぼくがきみを殺すまで  紹介と感想 >

ベル・エイドとハラ。隣接する二つの国家の対立は戦争に発展し、戦闘は激化していきました。少年兵たちも戦場にかりだされ、命を失い、あるいは生き残るために人の命を奪うことを厭わなくなっていきます。双方の国同士の憎しみはエスカレートして、互いを殲滅することを心に誓うようになる。家族を守るため仕方なく武官学校に進学したベル・エイドの少年エルシアもまた戦場に送りこまれ、負傷して敵国の捕虜となります。明日、処刑されるという日にエルシアは歩哨の少年兵と言葉を交わします。処刑を担当することになっている少年兵は自分が手にかけなければならないエルシアと話をすることをためらいますが、ここに至るまでのエルシアの生い立ちと、彼の友人であるハラの少年の話を聞くことになるのです。架空の国を舞台にした戦争の物語。イメージとしては中近東かアフリカ。海外児童文学のアフガニスタンを舞台にした物語やデボラ・エリス作品の世界観を彷彿とさせられます。国家による理不尽な統制やマインドコントロールが拡大していく様子などは、多かれ少なかれ、各国各時代の戦時下でも共通したものなのかも知れません。胸に刻まれるべきひとつの寓話。あるいは非合理を受け入れざるを得ない人間の哀悼すべき運命。それでも胸に灯し続ける光があることについての感嘆。何をこの物語に見いだすか。多くを問いかけられる作品です。

『言葉が死んだとき、戦いが起きる』。学校の授業でそう発言したハラの少年であるファルドの言葉にエルシアは心を動かされます。言葉が死ぬのは人が人に気持ちを伝えようという意思を失った時です。エルシアは小学校教師の兄の計らいで一緒に暮らすことになった、このハラの少年に興味を覚え、やがて二人は心を通わせていきます。隣接するハラとベル・エイドは独自の文化を持ち、長い年月、人が行き来して交流を続けてきました。しかし、利権を巡っての争いから両国に戦争が勃発します。ベル・エイドの人々はハラの人々をパウラ(毒蛇)という蔑称で呼び、やがてそう呼ばなければ裏切り者とみなされるようになります。リベラルな教員だったエルシアの兄はいわれなく逮捕され、スパイとして処刑され、家族は窮地に追い込まれます。家族を救うため武官学校に進み兵士になったエルシアは、この歪んだ世界の中で生き残るために銃を手に取ります。言葉はとっくに死んでしまった世界。若者の多くは命を落とし、国は疲弊しもはや復興する力さえない。それでも言葉を交わすことで人には取り戻せるものがあるのか。エルシアは自分の前からを消したファルドのことを思い描きながら、処刑の日を迎えようとしています。

この物語を読んでいて思い出したのが、小川未明の『野ばら』です。国境を警備する、双方の国の兵士が次第に親しくなるものの、両国が開戦し、敵味方に分かれてしまう。若い兵士と老兵士の友情は失われることはないまま、出兵していく若い兵士を見送らざるを得ない老兵士の哀感が胸に響く童話です。戦争の物語が伝えるものは色々ですが、子ども心にも深く刺さり、生涯に影響するものだと思います(ちなみに小学生の時、学芸会の劇の演目が『野ばら』で、老兵士役をやらせてもらったので自分には印象深いということもあります)。一方でコミュニケーションが人の隔てを取り払えるかどうか、やや疑問を持つようになったのは現在の自分の人間不信ぶりです。理解しあえばしあうほど、分かり合えないと思うこともあるのではないか。その時は互いに譲歩して距離を置き、争いを避けるしかないのか。「呉越同舟」の故事もありますが、時には利害の一致によって敵同士が協力しあえることもあります。利害ありきかも知れないけれど、そこから生まれる友情もあって欲しいものです。窮地で敵同士が協力しあい心を通わせるという物語が常套であるのは、人はどこかで、その困難な理想を求めているからでしょうね。そこにはまだ救いがあるのか。『第五惑星』というSF映画も思い出されます。異星人とも交流できるのなら、人種や信条の違いなど大したことではないという例ですね。