明日のひこうき雲

出 版 社: ポプラ社 

著     者: 八束澄子

発 行 年: 2017年04月


明日のひこうき雲  紹介と感想 >
教室の窓越しに、校庭を横切って歩く少年に目を釘付けにされてしまった遊。チャイムが鳴っているのに悠然と歩くその姿。こちらを見上げた少年の鋭いまなざしに、遊は電気が走るようなショックを受けます。中学二年生の遊のまわりの女子たちは恋バナに夢中だけれど、遊は今までにそんな気持ちを抱いたことはありません。それなのに、まごうことなき一目惚れで、恋に落ちてしまったのです。彼は同じ学年の金城君。愛称はキンちゃん。サッカー部のエースストライカー。これまで帰宅部だった遊は、友人の満里を誘ってサッカー部のおしかけマネージャーになり、キンちゃんとの距離を縮めていきます。キンちゃんの一人朝練につきあうことになった遊は、次第にキンちゃんと打ち解け、その人柄にも惹かれていきます。サッカーに懸命にとりくんでいるキンちゃんを一心に応援しながら、自分の制御不能な感情に振り回される遊。恋する気持ちの喜びと苦しみ。不安に胸がしめつけられたり、嫌われることを恐れるあまり、キンちゃんを知らなければ良かったとさえ思ってしまう遊。ということで、サッカー部の仲間たちとの楽しい日々を過ごしながら、甘やかな恋愛に胸を痛める青春の王道を爆走中の遊なのですが、この物語には「青春にうつつを抜かしていて良いのか」という焦燥の影がつきまとっています。これが、この比類なき物語を構成する重要な要素だと思っています。ミュンヘン図書館の国際推薦児童図書目録「ホワイト・レイブンズ」にも選定された、傑出した作品です。

この物語のもうひとつの軸は、遊が自由に青春を謳歌することを阻む家庭の事情です。遊の家は正常に回らなくなっています。父親は単身赴任中で、母親が、うつ状態で動きがとれなくなっているからです。一日中、カーテンを閉めきった部屋で伏せている母親は、食事を作ることも洗濯もできない状態になり、遊や弟のダイは学校給食だけで乗り切らざるを得ない日が続くこともあります。無理をして組んだ家のローンの支払いのために、正社員になって働き始めた母親は、無理がたたって、逆に働けなくなりました。家計は逼迫して経済的に立ち行かなくなり、それが両親の不和を生んでいます。父親の会社もまた経営の先行きを見据え、事業所の統廃合が行われる模様であり、父親も仕事の不安を抱えています。こうした重い状況が、遊にはのしかかってきています。修学旅行の参加費を捻出することも難しい状況で、いつもお腹を空かせ、洗濯も行き届かず、汚れた服を着ている自分。そんな暗澹たる気持ちを抱えた遊の目に飛び込んできたのが、キンちゃんです。ここから、遊の青春がスパークしはじめますが、家の状況は変わらないし、母親は誤って薬を飲み過ぎて、生死をさまようなんて事件さえも起きます。それでも、生きることのよろこびを知った遊は、自分を取り巻く世界を、感謝をもって感じられるようになっていきます。家庭の問題を前に絶望せず、決して心を黒く塗りつぶされない遊に救いを見る、伸びやかな物語です。

さて、青春と介護は両立するか、というテーマについて考えています。介護のために仕事を続けられなくなり、会社を辞める人は多いものです。学業だって、諦めなければならないこともあります。親の具合が悪いとなれば、最優先で対応をしなければならない、というのが良識なのでしょう。とはいえ、家庭小説の古典であるエレナ・ポーターの『スウ姉さん』のように、親のため、家族のために、自分の将来や夢や楽しみを投げうって尽くした挙句、その苦難の時期が終ってみると、自分自身には何も残されていないと気づかされる、そんな残酷な事例もあると思うのです。現実にも、自分を犠牲にして家族を支えている若い人は多いだろうし、そこには「青春」なんぞと言っている余裕はないかと思います。ただ、ここで良識に負けないことが肝要です。この物語のキーとなっているのは「ひこうき雲」です。低気圧になると、母親は体調を崩しはじめますが、遊は低気圧の影響で発生する「ひこうき雲」が好きで、明日の希望を感じるのです。そのことを遊は、あえて臆面なく宣言する、その意義を考えています。親の具合が悪いとなれば、それを第一に考えることが道徳的な要請です。ただ、子どもが有意義に人生を生きていくこともまた、親から望まれていることではないのか。いや、長女である遊は、もっとしっかりと家のことをやって、親を支えていくべきなのだ、という意見もあると思います。そんな自問が読後も続く、考えるべきことの多い作品だと思います。ただ、やはり青春の時間の輝きは貴いと思います。中学二年生の初恋の弾ける気持ちがここに繋ぎとめられていて、この時間には敵わないなあと、つくづく思うのです。

※この物語に多くの示唆を与えてもらい書いた評論文 『親が心を病んだとき』(日本児童文学者協会児童文学評論新人賞佳作受賞作)を、『日本児童文学』(2018年7、8月号)に掲載していただいております。機会がございましたら、ご覧ください。”