オレたちの明日に向かって

出 版 社: ポプラ社 

著     者: 八束澄子

発 行 年: 2012年10月


オレたちの明日に向かって  紹介と感想 >
個人経営で保険代理店を営んでいる今井さん。四十一歳、独身、母親と二人暮らし。彼の業務日誌が、横書きの体裁で、しばしば本編にインサートされてくるという異色の児童文学作品です。今井さんは新卒で大手の保険代理店に入社し、優秀な営業成績をおさめ活躍していましたが、同僚が心筋梗塞で突然亡くなったことをきっかけに会社を辞めて独立します。一人で保険代理店業をやることにした彼の心には、契約数のグラフや数字に追い立てられることではなく、人を生かすための保険をやりたいという志があったのです。中学二年生の勇気は、ジョブトレーニング(職業体験のカリキュラム) で働く場所を選ぶ際に、今井さんの保険代理店で仕事をしたいと申し出ました。食べることが好きな友人が鮨屋を選んだのとは違う、意外な選択でした。勇気は少なからず、今井さんと縁があったのです。母親がよく車をぶつけていたせいで、家に何度か今井さんにきてもらったことがあったし、授業で今井さんがライフプランニングについて講義をしてくれたことが、勇気なりに将来を考えるきっかけになっていました。身体は大きいけれど、バスケ部でも活躍できない、勉強もいまひとつという、さえない少年である勇気。女の子たちはシビアに男子に将来性を求めている、となると、勇気は自分に自信をなくして、憧れの女の子の前でも萎縮してしまうのです。そんな勇気は、この職業体験で、今井さんから何を学んでいくのか。実にユニークな題材の児童文学作品です。

保険というものの生々しさ。今井さんは、金融商品の中でも、とくに人間くさい、保険に惹かれたのだと言います。生活に密着していて、人に安心を与えてくれるものですが、一方で、保険金詐欺など、キナ臭いものも見え隠れしているため、保険代理店を営むのは一筋縄ではいかないようです。事故やお金にまつわるトラブルに、人間はいつ巻き込まれるかわかりません。勇気の姉も、交通事故を装って示談金をせしめようとする「当たり屋」の被害に遭います。それは中学生が、親の命令でわざと車にぶつかるようにしむけられた悪質なものでした。勇気の職業体験の傍らで、今井さんはこうした多くのトラブルを解決していきます。勇気が同行したことで、お客さんを和ませることができたケースもあり、勇気も働くことの歓びを知っていきます。一方で、勇気の目が触れないところでも、今井さんは、よりハードな対応もしています。死亡事故の加害者を説得して反省を促すことも、被害者の家族に怒鳴られることもあります。保険という商材を介した人との密接な触れ合いには、歓びもあれば、辛いこともあります。時には犯罪に毅然と対応しなければならないことだってあるのです。あくまでも物腰は柔らかく、人あたりのいい今井さんが隠し持った決意や信念に、勇気は感化されていきます。さえない少年もまた、明日に向かって生きていくことを決意する、希望に満ちた物語です。

今井さんは年齢的には中年で、時折、体力の衰えを嘆いていますが、メンタル的にはまだ青年の意気があります。それでいて落ち着きと冷静な判断力があり、驕ったところのない謙虚な人物です。組織や競争などの、くびきから逃れた自由人であり、ちょっと熱くなって「おれ」なんて言うあたりも理想的です。個人経営で仕事をしていくことには相当の覚悟が必要で、芯の強さがなければできません。まあ、男性目線でも、ちょっとカッコいい人なわけです。結婚もしたいし、子どもも欲しいと思っている今井さんですが、ロマンスのかけらもないし、その予感すらない、というのが、この物語での現実です。おそらく今井さんは、本人の意志に反して、このまま独身だろうなという未来が見え隠れしています。勇気は、自分たち男子が、社会的なスペックで女子に判断されることに暗澹たる気持ちを抱いていました。しかし、今井さんの背中を見て、別の価値観を見つけ出します。こんな大人になりたいと憧れも抱きます。かといって、今井さんはモテる気はしないのです。それは経済力云々ではなく、今井さんが気がまわりすぎる、できた人、だからかも知れません。長所よりも短所が愛されることもある、なんてことを、勇気が知るのは随分と先かも知れませんが、思っていたものとは違う、意外な明日がやってくることもあります。それもまた人生における希望かなと思っています。