出 版 社: ポプラ社 著 者: 八束澄子 発 行 年: 2024年10月 |
< 森と、母と、わたしの一週間 紹介と感想>
この物語は「目が笑っていない」と友人に指摘されてうろたえる中学生女子が主人公です。その笑顔が表面だけなのだと内心を見透かされた気まずさ。実は人づきあいが苦手だとは、つきあいのある当事者の友人には言えないものです。口角だけ持ち上げて笑顔を作っていても、それは偽りの仮面です。かといって、心の中は仏頂面かといえば、そんなこともなく、心が動きにくい状態なのかもしれません。友だちの前では無表情ではいられない。でも、自分は本当はどんな顔をしていたいのか、それさえわからない時があるのも思春期です。楽しくもないのに笑顔を作るのはしんどいものです。人づきあいが苦手だとは知られたくない。その点には希望を感じます。まだ世界と繋がっていたいという意志があるのだから。笑顔をよそおうだけの気概がゼロではないからこそ、掛け算が成立します。生きづらさ、は現代ヤングアダルト文学の大いなるキーワードです。それは、より良く生きたいという気持ちあっての辛さです。心から笑いたい。笑顔を取り繕わなくても人とつきあえるようになりたい。笑っていなくても、まだ目は死んではいないのです。ではどうしたらいいのか。我知らず「旅に出る理由」が募ってきています。そして、人は電車に飛び乗るのです。辛さから逃げるのではなく、その先に待っているものが、笑顔をもたらしてくれる可能性を求めて。中学生女子が「母をたずねて」旅に出る。そこには出会うべきものが待っています。これは、目が笑っていない少女による母をたずねる冒険、マザークエストなのです。
中学二年生の女子、野々歩(ののほ)の、離れて暮らしていた祖母が亡くなったのは春休みの終わり頃。葬儀を終えても、所有する山林の複雑な相続の手続きがあるという母親は、一人、実家である山あいの祖母の家に居残ることになりました。ところが、母親はずっと帰ってくることがないまま数ヶ月が経ち、ついには二学期を迎えてしまいます。父親との慣れない二人暮らしに加え、コロナ禍明けの普通の学校生活には色々な行事も復活し、社交的ではない野々歩にとっては過ごしにくいものでした。無理をして人づきあいをしている自分の心の裡を、友人にも見透かされてしまい、このまま学校生活をこなしていくことに野々歩は限界を感じています。そんな折、ふいに風によばれた気がして、野々歩は、学校に行く足で電車に乗り、母親の暮らす山あいの家に向かっていたのです。突然に学校を休んでたずねてきた娘に驚きながらも、歓んで迎えてくれた母親。どうして帰ってこなかったのかははっきりとは言いませんが、一週間の滞在を決めた野々歩もまた、この山と森のある暮らしに心を動かされ、共感していきます。祖母は山の敷地を「森のようちえん」に無償で貸し出していました。そこは自然の森の中で子どもたちを遊ばせ、学ばせ、自主性を育む場所です。野々歩の母親はその事実を知り、貸し出しを継続した上で、ボランティアでこの幼稚園を手伝っていました。野々歩も一緒に手伝いながら、子どもたちの元気と森からの英気を吸収していきます。思いのまま森で過ごしている子どもたち。人の目を気にしながら息をつめて暮らしていた自分を振り返り、野々歩は自分を解き放つ力をたくわえていきます。人に気をつかうばかりではなく、誰かの助けを借りてもいい。森で暮らす一週間。その充電時間は、野々歩に多くの気づきを与え、心の笑顔を取り戻させていくのです。
出かけたまま帰ってこない母親を子どもが待ちわびて、時にたずねていく物語は児童文学の常套です。おなじみ『クオレ』の月曜講話(『母をたずねて三千里』)を端緒にあげることになりますが、この母親さがしは、時代を追って、より物語として深化していきます。なぜお母さんは帰ってこないのか。母を恋うる子どもの一途な気持ちと、母親側のやむを得ない事情が明らかになっていくあたりに興味をひかれます。たずねられる母親自身も、なにかを「たずねている」ということが往々にしてあります。現代の作品では、自分探しをしている、というパターンが多いのですが、母親もまた迷走しているのです。野々歩の母親も、遺品整理をしながら、自分の母親をたずねる心の旅に出ていました。父祖の代からの山林を継承した自分の母親は、ここを維持しようといかに苦心していたのか。田舎暮らしが嫌で早々に家を出てしまった野々歩の母親は、どんな思いで自分の母親が一人でこの家で過ごしていたかに想いをめぐらせていました。母親の抱いていた思いを、その死後に受け止めることは、なかなかハードな悼み方です。母恋という感傷ではなく、母親を人として見つめ直し、慈しむ。生前に気づくべきだったという後悔を浮かべる母親を、今度は娘の野々歩が見据えています。母を想う、という、ただそれだけの言葉に、読者それぞれ想いを馳せるものがあると思います。家族の姿を描き続ける八束澄子さんの作品の中で、母親は、比較的存在感を意識させられない印象があります。初期作品はとくに家族にとっての父親の物語が中心であり、母親は、ごくあたりまえのように見守ってくれる安定した存在でした。それは存在感が薄いのではなく、存在が大きすぎて、見えなくなっていたのかも知れません。子どもたちもまた、母親に甘え、恋慕うことは照れくさいし、あえて口に出すことはないけれど、それは作者の母親としての、あるいは娘としての含羞ではなかったかと想像しています。『森と、母と、わたしの一週間』は、そのリミッターが取り払われた、母を想う気持ちに溢れた胸に響く物語です。森の一週間から日常に戻った野々歩がどんな目をしていたか。読者もまた刮目することになるでしょう。