出 版 社: 講談社 著 者: C.グルニエ 翻 訳 者: 河野万里子 発 行 年: 2006年09月 |
< 水曜日のうそ 紹介と感想 >
ある芸人さんが糖尿病の合併症で壊疽した片足を切断したことをお母さんに隠していたそうです。会う時は必ず義足をつけて、歩き方にも気をつける。お母さんはやがて亡くなり、彼は片足を切断したことを隠しおおせたと言う。そんな新聞記事を読んで、凄い話だなと思うとともに、一抹の共感もありました。僕も親とは同居しておりませんので、隠せる程度の病気なら可能なかぎり知られないようにすると思います。いらぬ心配はかけたくない。積極的な親孝行ではないものの、心の重荷にはなりたくないという気遣いです。逆に親が自分に病気を隠していたら、怒りますよね。水くさいと思う。心配してこその親子ではないかと。矛盾していますが、このあたりの心理は実に複雑なものがあります。大義名分があれば許されるというわけではありませんが、「うそ」は、冷酷な「真実」よりも人の心の痛みをやわらげてくれることがあるかも知れない。時として「うそ」は優しく、それゆえに残酷なものなのかも知れません。
毎週水曜日の正午、おじいちゃんは、イザベルの家を訪ねてくる。長年、劇場のプロンプターを務めていたおじいちゃんは、演劇とモーツアルトを愛する粋な趣味人。女優だったおばあちゃんが亡くなってからは、ずっと寂しい思いをしているけれど、イザベルたちと一緒に住むことはせず、思い出のつまった我が家で一人、きままに暮らしている。おじいちゃんの楽しみは、水曜日に息子夫婦や孫のイザベルとたわいもないおしゃべりをすること。お父さんは、おじいちゃんのことが好きなのに、顔をあわせると、いらいらとして邪険にしてしまうことも多い。週に一度、顔を合わせてお茶を飲むだけなのに、繰り返しの多いおじいちゃんの話を聞いていることが我慢できなかったりする。お父さんも、仕事が忙しく、おじいちゃんのために無理して時間を割いているので、心の余裕がない。大学の先生をしているお父さんは、今、大きなチャンスを掴もうとしている。40歳を過ぎて、そろそろ助教授の仕事につきたいと思っていたところに、念願のオファーがきた。しかし、その大学は通うには遠すぎる。通勤時間を考えると引越しをしなければならない。でも、それではおじいちゃんが訪ねてこれなくなってしまう。おじいちゃんが週に一度、楽しみにしていることを無くすわけにはいかない。さて、どうするか。お父さんが考えたアイデアは、おじいちゃんを週に一度家に招き、そして引越しもするということ。このプランを実現するためには、ひとつの「うそ」が必要だった。おじいちゃんを傷つけないための優しい「うそ」。だけど、それは残酷な「うそ」でもあった。
この話、最後まで読むと、ちょっと泣けてしまうんですね。とてもとても優しい痛みを孕んだ結末に、どうしようもなく泣けてしまう。おじいちゃんには何も知らされていなかった。引越しのことも、お母さんに新しい赤ちゃんができたことも、自分が「がん」だということさえも。お父さんの優しい「うそ」は、ただの偽りの仮面であったのかも知れない。「うそ」は人を傷つける。でも、「うそ」をつきとおすことで愛情をあらわす人もいる。物語の終りに、すべての隠されていた秘密があきらかになったとき、この物語が、どんなに温かい思いやりに満たされていたのかを読者は知ることになります。ちいさなごまかしではない、人が深い愛情をしめすためにつかなければならない「うそ」。それもまた哀しいことではあるのだけれど。切ない心のゆらぎに、思わず涙があふれてしまう。そんな作品です。イザベルのボーイフレンド、ジョナタンは演劇好きの少年。彼はおじいちゃんに心酔して、その晩年の最後の友人となります。自らの老境を語るおじいちゃんの言葉に耳を傾ける少年と少女は、人生への深い慈しみを知ることになります。胸に響く多くの言葉たちに彩られた、美しくも、切ない物語です。