そのぬくもりはきえない

出 版 社: 偕成社 

著     者: 岩瀬成子

発 行 年: 2007年11月

そのぬくもりはきえない   紹介と感想>

高校の時の同級生で、他人のカバンや机を勝手に開けて中を見ている人がいました。理由は不明です。無論、周囲は非難していましたが、本人は一向に意に介していないのです。危険な物がないかどうかチェックしてくれていた、のかも知れないのですが、すんなりと納得はできません。傍から見れば、ただの「奇行」だけれど、本人は「好意」を寄せているつもりだという場合、これは手に負えないものがあります。好きになった人をずっとつけまわすのも好意だし、その人の家の周囲を夜な夜な徘徊してパトロールしてあげるのも好意かも知れない。こうした、世間の常識とちょっとズレてしまった人たちを「おかしい人」として一刀両断するべきなのかも知れないのですが、少し、その「思い」を考えてしまうところがあります。本書の主人公である小学生の女の子、波が、同級生の机の中に、カマキリの死骸を入れておいたのは、嫌がらせではなく、彼女なりの好意によるものだということはなかなか理解されないと思います。波は先生から教育的指導を受けることになります。一般的な感覚やルールを教えなくてはならないのが教師の務めです。しかし、波がそれを理解したかどうかは謎です。波は、ちょっと難しい子です。あたりまえのことを、あたりまえにこなすことに、時間がかかる子なのです。知的に問題があるわけではないけれど、フツウを求められると、沈黙してしまう。その感受性は緩やかすぎるのか、敏感すぎるのか。本書は、この波という少女を主人公に物語が進みます。波の心の動きを、言葉で説明することなく、寡黙な文章から類推させる手腕は確かで、静謐な空気がほどよい緊張感を孕みながら、読者に物語の行方を見守らせます。文章表現はかなり抑えられています。しかし、文章の合間から垣間見られる少女の心のゆらぎは実に鋭いのです。読者に委ねられるところは多いものの、岩瀬成子ファンには堪らない魅力を湛えている作品です。淡彩のようで、濃厚です。

両親が離婚して、母一人で、中学生の兄とともに育てられた小学四年生の波。彼女は、お母さんにこうしなさいと言われるままに、色々な習いごとをさせられたり、叱られることも多い毎日です。友だちを選ぶのも、この子とつきあった方が良いと、お母さんがアドバイスしてくれる。波は、おとなしい子だから、逆らうこともできないけれど、そんなお母さんの言葉に閉じ込められていることに、少し、息苦しさを感じ始めているところです。何分にも、波は、友だちの机の中にカマキリの死骸を入れてあげるような子なのですから、そのあたりの心模様の複雑さは想像してあまりあるところです。多分、お母さんが信じている正しさと、波の考えには違いがる。そんな波が、だんだんとお母さんの軌道から外れていきます。ちょっとしたきっかけから、波は、近所に住む一人暮らしのお婆さんの飼っている犬の散歩を引き受けることになります。お母さんには内緒。でも、すぐにバレてしまいます。反対されるけれど、波はお婆さんの家にどうしても足を運びたい理由があったのです。それは、お婆さんの家の二階にいる少年と会うため。一人暮らしのはずのお婆さんの家に、何故、少年が住んでいるのか。それはわかりません。波と少年の不思議な交流は静かに続きます。波は、リアルな世界での「つきあい」よりも、そこに心が落ち着くものをみつけたようです。ちょっと難しい子が、学校の友だちや、独善的なきらいのある母親との間で、ヒリヒリするような摩擦を経験している様子が、ごく静かな物語の中で描かれていきます。そして、それを越えた向こう側の世界に行き着こうとする過程が、不思議なできごとを通じて語られます。酒井駒子さんの繊細で芳醇なタッチの表紙を、イメージの中で重ね合わせながら、この物語を味わうのも一興です。静かな良い作品です。

僕自身、かなりズレた子であったかと思うのですが、それでも、なんとかバランスをとって、世間からドロップアウトしないようにやってきました。変人扱いされることはあっても、変質者とまで言われることはなかったので、一応、面目は果たされたのだと思いたいです。子ども=デフォルトで純心、ということはないと思っています。人間の本性は、純心などと手放しで呼べるものではない。やや揶揄をこめて言われる「天然」なら、まま当てはまるのかも知れません。「天然」は、善でも悪でもない。恐らくは、常軌と狂気のスレスレのナチュラルさです。本来、子ども心のズレは、いつしか修正されてしまうものです。天然の稚気は、世間との軋轢によって矯正されます。矯正されないまま大人になってしまうと、軋轢どころか、トラブルを招きます。遅かれ早かれ、良識の範囲を知ることになる。「天然」の人も「養殖」されたような人間になっていくことが社会化ということなのかも知れません。それがマトモということ。ただ、マトモを装っていても、時々、疼くような気持ちもあって、こうした物語の中で出会える気持ちに、ふと感じ入るところもあるのです。おそらく、そうした自分の危うさを無自覚のうちにでも感じたことがある人には、この作品を面白いと思われると思うのですが、どうでしょうか。