出 版 社: 新潮社 著 者: 西村賢太 発 行 年: 2011年01月 |
< 苦役列車 紹介と感想>
中学校を卒業して高校に進学する進学率は、2021年の統計によると全国で98.9%。100人にひとりは進学しない状況ですが、色々な事情があるのだろうと思います。一方で就職率は0.2%。この数字の狭間にいる人たちは、さらに複雑な事情があるはずです。とはいえ、世の中のごく少数派であり、注目を浴びることは少ないだろうと思います。子どもの貧困が取り沙汰されている昨今ですが、それでも高校進学が経済的理由でできないケースはわりとレアであり、児童文学やYA作品でも、中退はまだしもあらかじめ進学しないケースが描かれるのは稀です。児童文学系の物語だと中卒ないしは、中退して働くにしても住み込みでの徒弟生活となり、ちゃんとした大人の薫陶を受けつつ成長していくことが常套です。となると、寄るべなき社会という荒野に放り出された孤立無縁の少年はどう生きる指針を見出せば良いのか。本書は十九歳になったばかりの「少年」を主人公にしています。十九歳を少年と考えるか青年と考えるか。成人年齢が引き下げられた現在では、後者をとるべきかと思うのですが、社会的な線引きよりも、そのまだ幼い心の裡に寄り添いたいところです。以前に本書を読んだ際には既に主人公は大人という印象を抱いていましたが、その年齢なりの幼さも考えねばと思います。中学を卒業して、家を出て、日雇いのアルバイト暮らしを続けて三年。進学していれば大学生になっているであろう十九歳になったばかりの夏の物語です。いっぱしの労働者である主人公には、少年の面影はありません。日々の飲酒が心の慰めであり、風俗にも通う擦れっからしです。満たされない想いを抱え、未来に希望を持てないながらも、若さの可能性はある。だからこそ煩悶するのです。なにもできない自分と向き合う。未熟なメンタルを持て余すヤングアダルト小説としての魅力もまたここに見出せるかと考えています。
中学校を卒業してすぐに親元を離れて、ひとり暮らしを続けてきた北町貫多(かんた)は、十日前に十九歳を迎えていました。日雇いの港湾人足として肉体労働をして一日に得る五千五百円を飲食や風俗でほぼ使い果たし、家賃の滞納を重ねる生活。将来になんの希望もあるわけではなく、友だちも恋人もいない。日々の人足仕事をこなしているだけの毎日。自分が底辺の人間なのだという認識に自ら傷つきながら、劣等感を持て余し、恵まれた人間への妬みや嫉みを募らせていました。そんな折、仕事場で、同じ学年だという日下部と知り合います。この春、地方から上京してきた専門学校生だという日下部は、スポーツで鍛えられた身体を持つ、キラキラとした精悍な青年です。これまで友人がいなかった貫多は、日下部と親しくなり、この付き合いの良い青年と行動を共にするようになります。彼との友だちづきあいが、存外、楽しくなった貫多でしたが、単にアルバイトでここに働きに来ている日下部は、「普通に恵まれている人間」であり、自分とは住む世界が違うことを次第に思い知ることになります。このまま日雇いの人足を続けていくしかない自分。そしてどこへも進んでいけないことを自業自得なのだと貫多は考えています。並はずれた劣等感と浅ましい僻みや嫉みに苛まれながら、この先の道行きを終点まで続ける苦役列車のような人生。日下部との関係性を壊し、職場でのトラブルから仕事も失い、ただ無為に生きていく貫多を、文学の光明が照らすにはまだ時間を要するのですが、わずかな光明がここに差しかけています。
作者である西村賢太さんの私小説であり、主人公の貫多は、その写し身です。後に芥川賞を受賞する文学者になる人物と思えば、この無為に過ごしている青春もまた有意義なものに感じられますが、まだここには文学への目覚めはなく、ただただ若さを浪費している蛹の時間が描かれます。自分の将来が見えないままリアルタイムで若さを生きる時間には、不安が渦巻いているものであり、人と自分を引き比べて劣等感に沈み、楽しむこともできず、折角の時間を有効に活かすこともできなかったというのが、自分も人生を振り返っての反省点です。多少、緩和されるものの、この不安は生涯続いていくもののようで、焦るだけで無為に時間が過ぎていくのを眺めている状況はあまり変わりません。となると、今をどう楽しんで生きるかがポイントなのですが、そう楽しめるものでもない、というのが暫定的結論であり、だからこそ人生には味わいがあるものです。自分と貫多は同じ年の生まれです。同時代人として彼が青春を過ごした時代の軽佻浮薄な雰囲気や豊かさと偏狭さを体感しています。今ほど価値感が多様ではない時代です。小学五年生の時に父親が性犯罪を犯して逮捕されたことで、両親は離婚し、地元を逃げるようにして離れ、新しい暮らしを始めたものの、性犯罪者の子どもである自分への失望が彼を苛んでいます。その日暮らしの十代を彼が送ることにも理解と同情を禁じ得ないのですが、それでも彼が小さな自分自身にもがき、やがてそれを文学で昇華させていくことに、驚嘆と尊敬を覚えるのです。いや、その裏腹に、自分もまた作者に妬みや嫉みを抱いているやも知れず、それもまた人の生きる力なのだと体感するのです。児童文学系のように手を差し伸べてくれる大人がいない荒野でも人は生き抜けるのですが、どういう世の中であるべきかは考えさせられます。