出 版 社: 講談社 著 者: ジョン・マーズデン 翻 訳 者: 安藤紀子 発 行 年: 1990年05月 |
< 話すことがたくさんあるの… 紹介と感想>
『話すことがたくさんあるの…』というタイトルが印象的です(原題は『So Much to Tell You …』なので、良い邦題ですね)。心因的な問題から言葉を話すことができなくなってしまった女の子が主人公だというアウトラインを考えると、話すに話せない思いの丈のようなものがここに想像されます。しかも、これがこの物語の最後の台詞であり、ずっと思いを募らせてきた主人公の気持ちが、ここに溢れだす瞬間がクライマックスになっているあたりも絶妙なのです。とくに大きな事件が起こらないまま綴られていく思春期前期の少女の日常ものです。日記形式や独白体の作品には傑作が多いものですが、この作品も感情表出が豊かで、その怒りや悲しみ、そして喜びが、生き生きと描かれていきます。もちろん日記であるため、誰かに読ませることを意図したものという体ではなく、書いている人が誰なのかということさえ、当初はわからないのです。まあ、自己紹介はしないものでしょう、日記で。言葉を話すことができなくなってしまった彼女が学校の寮で生活している事情も、明確にはわかりません。ただ、ここに至るまでの複雑な事情は、この日記を読み進めるうちに次第に見えてきます。それはミステリアスでもあり、謎解きのような好奇心をそそられるものです。とはいえ、その原因となった肝心の事件について触れることは、彼女にとっても抵抗があり、なかなかはっきりと言葉にはされないのです。頑なだった心が少しずつほどけていくプロセスをページが進むごとに感じられます。少女の鋭い感性のフィルターが捉えたものを読者は見ながら、彼女が気づいていないものに彼女が守られていることも感じとれるのです。宇野亜喜良さんの装画やイラストが味わい深く、この物語の世界観を彩っています。なんとも濃密な空間に浸ることのできる一冊です。
オーストリアのウォリントン女子学園に通うマリーナは十四歳。この学校に編入して、寮の八人部屋で七人の女の子たちと一緒に暮らしています。ここにくる前、マリーナは入院して治療を受けていました。心因的な問題で、言葉を話すことができなくなってしまっていたのです。笑うことも、泣くこともなく、声を出すこともない彼女に、同室のごく普通の健康な子たちは、距離を置いて接しています。マリーナは沈黙を守り続けていますが、その心は饒舌です。彼女の観察眼は、同室の子たちの行動を捉え、日記に書き写していきます。無気力な態度をとっているように見えるマリーナは、他の寮生から怒りをぶつけられることもあります。周囲に面倒をかけている自覚もあるマリーナですが、特別扱いされている自分を自認する、そのスタンスはやや不敵です。彼女が日記に綴る文章から、同室の子たちの人物像も浮かび上がってきます。マリーナは突然、当たり散らされることもあります。同室の子たちもまた、かならずしも落ち着いた情動の持ち主ではなく、思春期の真っ盛りで、実に気まぐれなのです。何をしていないのに、憎まれることもあれば、好かれることもあったりとマリーナも戸惑います。彼女の目を通して語られていく、女の子たちの日常は、けんかもあれば、大騒ぎもあります。彼女が耳をそばだてて聞くおしゃべりからも等身大の姿が伝わってきます。そうした中でマリーナには、悲しみに沈む子に同情を抱いたり、慰めたいと思うような感情も育っていきます。当初は、自分の問題に向き合うだけだったマリーナが、寮の子たちのそれぞれの孤独を思ったり、心配を寄せるようになる過程が、日記の中から見えはじます。次第に周囲の子たちに愛着を感じはじめている、その心境の変化は、彼女自身の心の問題が少しずつ氷解しはじめている様子を表していたのです。
マリーナはどうして口をきくことができなくなったのか。この事情については、はっきりと語られません。マリーナ自身が、自分の日記とはいえ、それを言葉にすることができないからです。両親は離婚し、お母さんは再婚していますが、実のお父さんは、刑務所に入っている、ということが段々と、彼女の独白からわかってきます。どうやらお父さんが捕まった理由がマリーナに関係あるらしい、ということも、マリーナが裁判で証言したことなどからも類推されます。ビジネスマンとして忙しく働き、家族に豊かな生活を送らせ用としていた父親は、家庭を顧みない人であったことや、なんらかの虐待をマリーナに対して行なっていたのではないかという疑いも文脈から読み取れます。母親に対しても複雑な感情をいだいており、気持ちを委ねることができないマリーナ。一方で、刑務所にいる父親を思い、その気持ちや人間性に歩みよろうとしているのです。ここにある愛憎が深く、それをマリーナが言葉にしようと綴っていく心境が実に読ませます。誰かに優しくしてもらったことに応えられないもどかしさや脈略のない怒りや動揺。心を揺るがす感覚の波動がここに記されています。周囲の人たちの配慮や優しさに、我知らず、マリーナは影響を受けていきます。彼女に自覚はなくても、彼女が良い方向に変わっていることに読者が気づかされるあたりが巧妙です。マリーナの感情が溢れだし、そして「話すことが」が極まるラストがぐっとくる作品です。