La sombra del viento.
出 版 社: 集英社 著 者: カルロス・ルイス・サフォン 翻 訳 者: 木村裕美 発 行 年: 2006年07月 |
< 風の影 紹介と感想 >
古本や稀覯本を専門に扱う書店「センペーレと息子書店」。祖父、父と続く、この古書店の後継ぎである息子ダニエルも十一歳となり、ついに父に『忘れられた本の墓場』に連れてきてもらえる日がきました。この場所は、本の聖域。古くからバルセロナにあって、古書店や図書館が無くなるたびに流れてきた本が、最後に行き着く場所。多くの古書業者が出入りする、この闇の教会堂に初めて連れてこられたダニエルは、父に促されて、一冊の本を手にします。この本の墓場には、ひとつの決まりがありました。自分が選んだ本をひきとり、その本の命が永遠に消えないようにすること。ダニエルが選んだのは、フリアン・カラックスという作家の『風の影』という小説。偶然にこの本をひきうけたダニエルは、やがて、多くの事件に巻き込まれることになります。謎の作家、フリアン・カラックス。一部の稀覯本の愛好家や蒐集家には垂涎の的ではあるものの、一般的には全く知られていない無名の作家。小さな出版社から何冊かの本が出版された後、謎の死を遂げ、残された本も市場から失われてしまったと言われる人物。『風の影』に感銘を受けたダニエルは、フリアン・カラックスについて調べていくうちに、彼の小説が、何かの意図によって世の中から消されていったことを知ります。そして、『風の影』の最後の一冊を持つダニエルに、フリアンの小説の中に出てくる「悪魔」を名乗る奇怪な男がつきまといはじめて・・・。二十世紀中葉のバルセロナを舞台に、謎めく作家の人生がひもとかれながら、一人の少年の成長が描かれていきます。およそ十年にわたる長い物語は、少年ダニエルに痛ましい恋やロマンスを経験させながら、作家フリアンの過酷な運命をオーバーラップしていきます。ただ筋立の面白さだけではなく、現在と過去を行き来しながら、避けようのない終着点に辿り着こうとする物語のダイナミズムは、緊張感を最後まで持続し、上下巻800ページを超えるボリュームを読みきらせる力を持っています。本が作家によって書かれ、読者に読まれることで命を得る。本の命とは何かということを考えさせられる物語。読書することに特別な思い入れを持つ方にお薦めしたい作品です。
世界的なベストセラーであり、日本国内でも高い評価を得た本書は、明解なストーリーでありながら、重厚で神秘的な雰囲気をまとっています。この本を読まれた多くの方たちも指摘されていますが「ディケンズ」のような、あるいは「ゴシックロマン」のような感覚に満ちている。たとえば、『風の影』を手に入れた少年ダニエルが、稀覯本の蒐集家バルセロにアテネオの図書館に招かれる物語冒頭のエピソード。「金持ちの屋敷に招かれた市井の少年」は、バルセロの美しい姪、盲目の女性クララと出会います。年上のクララへの恋慕はやがて失意のうちに終わることになるのですが、少年が経験する、そうした出来事の連なりが、彼の成長を培っていきます。それはまた類型的でありながらも、ゆかしいスタイル。いくつかの出会いと別れ。フリアンの過去の時間をひもとくうちにダニエルが遭遇していく悲痛な記憶。そして語られる、登場人物たちそれぞれの悲哀。幾重にも折り重なっていく現在と過去のイメージはせめぎあい、繰り返される運命の相似形を匂わせます。登場するキャラクターたちも秀逸です。冷酷な悪漢刑事フメロの存在感。特に「センペーレと息子書店」の書籍アドバイザーと称する、店員フェルミンが素敵すぎます。機知に富んだ言葉でダニエルを励まし、諌める、ユーモラスで賢い大人であるけれど、やはり悲痛な過去を背負った人物。ここにいたるまでのそれぞれの人生の重み。それぞれの父親たちの父性は厳しくも切なく、感慨深いものがありました。ストーリーやキャラクターだけではなく、物語を彩るそれぞれの要素が魅力的で、エピソードの結合や、物語のダイナミズムが持つ力を意識させられた作品です。そして、訳者あとがきによると、この作品は、本国では、広告や宣伝の仕掛けなしに口コミで広がって、大きな人気を獲得していったものであるとのこと。物語の中で描かれているものと、物語の外にあるものが融合し、一冊の本を装っていくのですね。そうした意味でも、とても興味深い作品なのです。
本を読むということ。自己の魂と精神を全開にする、個人的な儀式としての読書。この物語の終わりに、読書という行為が現代から失われつつあることが危惧されています。それはひとつの反語。例え、市場や流通から消えてしまっても、その本の命は終わったわけではありません。誰か、その本のことを大切に思い、覚えている人がいるかぎり、その命は尽きることはない。読書の精神は、自分自身と出会うこと。人間は読書を通じて、自分の心の中の声を聞くことができる。本書、『風の影』では、失われた作家の作品をめぐるドラマが描かれました。世の中には、沢山の本が出版され、そして消えていきます。それぞれの本は、それぞれの命を持ち、誰かがその本で、自分の心と対話することができたのかも知れません。もしかすると、これまでの発行された本の数だけ、心のドラマがあったのかも知れない。読書する精神があるかぎり、その本の命も損なわれることはなく、また読書こそが、人が自分自身の心を失わないためのカギなのだということも考えさせられます。かつて読んだ大好きだった本を語るとき、人は、自分の心の大切なものを思い出しています。本書、『風の影』は、古書店を舞台にしたミステリーとはいえ、『死の蔵書』というよりは、『チャリング・クロス街84番地』のような「読書愛」を感じさせる作品であったかと思います。