15歳、ぬけがら

出 版 社: 講談社

著     者: 栗沢まり

発 行 年: 2017年06月


15歳、ぬけがら  紹介と感想 >
「いちばんボロい」といわれている市営住宅で暮らす中学三年生の麻美。二人で暮らしている母親は心を病んでいて、動くことさえできない日もあり、家事も行き届いていません。食べるものも与えられず、学校の給食に支えられている食生活。パンの耳をもらい、試食で空腹を紛らわす、貧しさのディテール。麻美の家庭の問題は、その汚れた服装や、臭いにも現れていて、同級生たちからも冷たい視線を送られています。同じ市営住宅に暮らし、互いの家庭事情を知る友人の翔は、NPO法人が主宰する学習支援塾に一緒に行こうと麻美を誘います。そこは、勉強も教えてくれるし、無料で食事も与えてくれる場所。それでも麻美は「施される」ことは嫌だったのです。十五歳の女の子である麻美には、もっと別の誘いもあります。お金を稼ごうと思えばイージーな方法もある。社会の淵からこぼれ落ちて、そちらの世界に行く選択肢も、すぐ目の前にあります。同級生たちが普通に楽しんでいる生活から、どんどんとかけ離れていく自分。惨めな思いを抱えながら、それでもまだギリギリのところに踏みとどまっている麻美。そんな彼女に訪れる微かな転機に、胸を熱くさせられる一冊です。福祉や社会制度が救いきれない現代の子どもの貧困に斬り込む、国内児童文学の野心的な挑戦です。社会派の題材ですが、訴えかけてくるものは、人の心の在り方についてです。どんな状況にあっても、どんな子どもであっても、人としての誇りや矜持を失わないでいること。それは泣きながら走り続ける過酷な戦いです。麻美は、まともで健全な魂を持っているがゆえに、苦しんでいます。心の大切な部分を守りながら、生き抜こうとする麻美に、大人としてどんなエールを送ることができるのか。この読書もまた、ひとつの挑戦だと思います。

麻美を支援してくれる大人の存在が、この物語では光っています。バカにされることに警戒感を尖らせ、頑なになっていた麻美の心に寄り添い、少しずつ心をときほぐしていく。それは、施しや、あわれみではなく、麻美の生き方を尊重するものでした。麻美が我知らず大切にしているものを、一緒に守ろうとしてくれる人がいたのです。ただ与えられるだけではなく、自分も人を支えていく生き方に、自分が生かされていく予感を麻美が感じるあたりで物語は終わりますが、この気づきには、光が射したような気持ちにさせられます。パン屋のおばさんの態度が実に良いのです。麻美に優しく接するわけではなく、説明がちゃんとできない麻美を厳しく問い詰めもします。それでも、慎重に彼女の話を聞いて理解をしめします。そして、納得した上で支援してくれるのです。上っ面のおためごかしではない優しさを思います。いや、これが正しさなのかもしれません。毅然とした大人の正しい態度が、子どもたちを支えていることが、嬉しくなる作品です。海外の児童文学作品では、こうした貧困の中にいる子どもたちを目にすることが良くあります。国内作品でも、格差の時代となった現代を反映して、そうした影が児童文学作品にも忍び寄ってきていますが、ここまで正面から突きつめた作品には、やはり驚かされました。第57回講談社新人賞佳作受賞作。みなぎる新しい力をここに感じます。

貧しくて、食べるものが買えないという話を聞くと、「 お金がないなら、安い食材を自分で料理をすればいいじゃない」などと安易に考えていました。自分は母親がおらず、小学生の頃から自分で料理をしていたので、工夫して料理を作るのは、子どもだってなんとかなると思っていたのです。千円の食費があれば、出来ることがあれこれ浮かんできます。でも、そんな考えは「パンがなければ、お菓子を食べれば」並の発想のようです。貧困とは、料理をしようという気力さえ、根こそぎ奪われている状態だといいます。水道もガスも止まっていては、手も足も出ませんが、それ以前に、やる気が起きないのです。お金がなくても豊かに生きられます。でも、そんなスピリットが育まれるには、ある程度、お金もある豊かな環境が必要だという矛盾があります。心が挫けてしまうと、立ち上がる気力さえ湧いてこない。立ち上がれなくては、先に進めない。転んだ子どもたちは、助け起こしてもらう必要があります。家庭がその機能を果たせないなら、誰かが手を差し伸べないとならない。さて、自分は、そこで何ができるのか。これは正しさを自認する大人にとって、刃物を首元に突きつけられるようなスリリングな読書です。苦しんでいる子どもたちを傍観するだけで、何もできない自分を再認識させられます。これまでに何もしてこなかった後悔もあります。ただ、意識は変わります。もっと努力すればいいのに、なんて安易に言えないのだと思い知ります。小さい一歩ですが、それもまた先に進むことなのだと思います。