トリツカレ男

出 版 社: ビリケン出版

著      者: いしいしんじ

発 行 年: 2001年10月


トリツカレ男  紹介と感想 >
読み終えた後に、幸福な気持ちのまま本を閉じて、さて、もう一度、最初から読み返そうかな、と思ってしまうような素敵な作品です。いしいしんじさんの小説としては『ぶらんこ乗り』と『麦ふみクーツェ』の間に刊行された作品で、両者の橋渡しのような作品でもあり、優しい寓話のような雰囲気は、ありきたりですが「宮沢賢治の世界のような」不思議な異国情緒が感じられる物語です。ただ、クーツェのような、漂い続ける「不吉な予感」に苛まれなくても良い(笑)、肩の力を抜いて気楽に読める作品です。なんだか、人間関係が嫌になってしまったり、誰かの台詞が胸に刺さってしかたがないようなときにでも、この本を開いてもらえたら、少しだけれど、塞がった気持ちが楽になると思います。この物語の主人公のジュゼッペときたら、人の目なんて気にせずに、ただただ気になったものを追いかけ続けるトンチンカンな青年なのですから、あなたがちょっとした変わり者であっても、到底、太刀打ちできる相手ではないのです。まだまだ自分はスケールが小さい、と思うこと間違いなしです。

ジュゼッペと言えば「トリツカレ男」として町では有名な青年でした。いつもはレストランでウェイターをやっているけれど、一旦、何かに「とりつかれて」しまったら、もう歯止めが利かなくなってしまうのです。ある時はオペラ。一日中、ジュゼッペは歌い続けます。日常会話はすべて歌。レストランでお客様から注文をとりながらもです。ある時は外国語。通信教育で十数カ国語をマスターして、レストランのメニューを各国語版で作り続けます。当然、外国のお客様対応もバッチリ。ある時は、三段跳び。ホップ、ステップ、ジャンプで、調理場まで移動する飛距離といったら。競技会にも出場して世界記録を塗り替えるほどの上達ぶり。ところが、困ったことに、ジュゼッペは、とりつかれている間は他のことが見えないほど夢中になるのに、他の対象を見つけると、ころっと、いままでのことを忘れてしまうのです。町の人たちも、こんなジュゼッペに呆れながら、それでいて、暖かい視線を送り続けていました。レストランもジュゼッペのおかげで大繁盛するときもあり、オーナーに長い目で見てもらって、クビにもならず、なんとかやっていました。探偵業、サングラス収集、刺繍、ハツカネズミの飼育と、ころころと興味の対象を変えていたジュゼッペ。そんな彼が、ある時、風船売りの少女と出会います。壊れた自転車を押しながら風船を売っている、おかしなデザインの黄色いワンピースを着たやせた女の子。その日から、ジュゼッペは、ふう、はあ、と溜息ばかりつくようになってしまいました。無論、溜息にとりつかれたのではありません。さて、こんなジョゼッペが、女の子を好きになったら、一体、どうなってしまうのでしょうか。

ペットのハツカネズミの調査によれば(このネズミ、言葉をしゃべるのです)、その風船売りの女の子は三年前に外国からやってきたけれど、ことばに不慣れなため、友達もできず寂しい思いをしているとのこと。ジュゼッペは彼女がうっかり風船から手を放してしまったとき、三段跳びで鍛えた跳躍力ですべての風船を回収し、覚えていた外国語で彼女と話をすることができました。『おれはジュゼッペ、ふうせんうりのペチカとともだちになりたいんだ』。舌を噛みそうな外国語でそう伝えると、この国ではじめて友だちができたペチカは喜びのあまり、早口で話し続けます。やっと、ペチカと親しくなれたジュゼッペでしたが、ある時から、彼女の笑顔の中にくすみのような灰色のにごりを見つけてしまいます。なにか心配事を隠している・・・。さて、ここから、ジュゼッペは、彼女に気づかれないように、ひそかに彼女の心配事を無くしていく一大事業にとりつかれます。そして、彼女がとりつかれているものに、更にとりつかれて、まあ、複雑な目に合うのですが、無論、幸福な結末は、お約束どおりですから。是非、是非、この素敵な物語ご堪能ください。誰かに夢中になって、その人の幸福のために、我を忘れて駆けずり回り、いつの間にか、何かにとりつかれたような状態になってしまう。思いもよらぬパワーを発揮して、犠牲を厭わず、努力を続ける。恋愛の初期症状の幸福感。ジュゼッペだけではなく、多くの人が経験したことがあるかも知れません。もし、あなたに好きな人がいたなら、是非、この、甘く幸福な本をプレゼントして欲しい、そんなことを思ったりします。尚、同じ変な人の話でも、ジュースキントの『ゾマーさんのこと』はプレゼントには向かないと思います。絶対。