出 版 社: ポプラ社 著 者: 椎野直弥 発 行 年: 2017年02月 |
< 僕は上手にしゃべれない 紹介と感想 >
自分が他の人と同じようにしゃべれないと柏崎悠太が気づいたのは六歳の時。小学校の劇で言葉が出てこなくなったことを意識して以来、人前でしゃべろうとすると吃るようになっていました。言葉が出てこず、同じ音を繰り返してしまう。こうした吃音は現代医学でも原因が判明しておらず、治療方法も確立していないそうです。かといって障がいであるとも認定されない。悠太はつっかえながらでしかしゃべれない自分がこの後、社会の中でまともにコミュニケーションを取れない人間としてどう生きていけば良いのか不安を感じています。人と満足に会話ができないため、引っ込み思案になり、小学校では友だちがいなかった悠太。中学に入学しても、最初の自己紹介でつまずいてしまいます。いえ、自分の順番がまわってくる前に、仮病を使って教室から逃げ出したのです。不甲斐なく、情けない思いをしても、人に笑われたり、戸惑われるよりはマシ。そんな前を向けない状態にあった悠太が、悪戦苦闘の末に一歩を踏み出していく物語ですが、その道のりは実にハードです。みなぎる悲壮感と追いつめられた少年の心理状態が余すところなく描き出されており、真に迫ります。悠太の気持ちにシンクロして、呼吸が苦しくなるほどの緊迫感がありました。主人公と同じ吃音を抱えているという作者でなければ描けなかっただろう心境のリアリティと、限りなく人を思いやる気持ちが輝いている作品です。
吃音の描写が容赦なくあからさまで、悠太が言葉を発することにどれだけ苦労をしているかが伝わってきます。ど、どどど、どど、のように、言葉が出てこないために何度も繰り返される音が多く、目で読むセリフであっても読み取りにくいほどです。そこにはスムーズに言葉を出すことのできない悠太の苦悩が滲んでいます。授業であてられて教科書を読むとき、どれほど恥ずかしい思いをしなければならないか。その気持ちは誰にも理解されることはないと思い悠太は心を閉じていました。それでも、しゃべる機会を増やして、成功体験を積み重ねたら、という姉のアドバイスに気持ちを動かされ、新入部員を勧誘する『しゃべることが苦手な人でも大歓迎』という放送部のチラシを信じることにします。傷つくのは嫌だけれど、変わりたい。それが悠太の切なる願いでした。悠太は放送部で人形のように整った美しい女子生徒である古部さんと一緒に活動することになります。いえ、先輩が抜けて実質、古部さんと二人だけの部活になるのです。同じクラスの古部さんは誰とも親しくしようとしない変わった子ですが、悠太に対してだけは何故か極端にフレンドリーで、積極的に言葉を交わそうとしてくれます。そんな古部さんの態度に、はじめて友だちができた歓びを感じる悠太でしたが、進歩することのない自分自身のしゃべりに次第に苛立ち、繰り返し言葉の練習をさせようとする古部さんに対しても怒りを感じるようになっていきます。馬鹿にされ、からかわれる苦しみもあれば、優しくされ、気を遣われることも重荷なのです。悠太が傷つくことに対して読者である自分も臆病になってしまい、このまま外に出ずにひきこもってもいいのではと思うほどでした。無論、ここからの再起には見ごたえがあります。ありすぎです。
ニューベリー賞オナーを受賞した『ペーパーボーイ』も吃音の少年が主人公です。1959年のアメリカのメンフィスに住む、今度、中学生になる主人公の少年は、悠太とほぼ同い年。原語ではどのようなニュアンスかわかりませんが、翻訳文では悠太ほど極端な吃りではなかったかと記憶しています。主人公の周囲にいる人たちが魅力的で、その関係性の中で主人公が影響を受け、成長していく姿が清々しい物語でした。上手にしゃべれなくても人と関わろうとすることが主題となることは一緒ですね。さて、悠太は紆余曲折の末、弁論大会への出場を決意します。このエントリーにいたるまで一山あり、大会でのスピーチでクライマックスを迎えます。吃音の伝わりにくい言葉で長いスピーチをする悠太。会場の反応は好意的なものだけではありません。支えてくれる人たちの力添えがあってこその悠太なのですが、この人たちが優しくあるとともに厳しくもあり、その叱咤と厚意を受け入れることも大きな壁でした。とくに人ぎらいの古部さんが悠太にだけは極端に好意的という設定も謎めいています。その謎もやがて解けますが、そのエキセントリックな熱意には圧倒されました。二人の恋愛未満の友情もまた麗しく貴いところでしたね。なんだかいい感じでしたよ。