わたしはイザベル

I  for Isobel.

出 版 社: 岩波書店

著     者: エイミー・ウィッティング

翻 訳 者: 井上里

発 行 年: 2016年11月


<   わたしはイザベル   紹介と感想>
心配してもしなくても、たいていのことは同じ結果になります。つまり、考えるだけ無駄ということです。でも、考えてしまう。しかも悪い方に。自分という存在は、良くも悪くもなく、卑下する必要もない。それなのに、自分は「屋根裏のみそっかす」だと思ってしまう。そうした心を抱えて生きている人が確実にいます。そんな気持ちになりがちな人間が、世の中と上手く渡り合っていくコツは、本だけを友として、誰とも関わらないことです。でも、普通に人生を楽しむことへの焦がれるような憧れがある。イザベルがカフェで文学談義に興じる学生たちと関わってしまったのもそうした渇望からです。子どもの頃から孤独で、本の世界をよりどころにしてきたイザベルは、生活のために不慣れな商業翻訳とタイプを打つ仕事をしていました。そんな彼女が、同じ年頃の大学生たちが興じている、文学的な会話や知的な世界に惹かれてしまうのも仕方のないこと。しかし、学生たちとの付き合いの中で、イザベルは大いに傷つくことになります。言うなれば、それは一人相撲の果ての自滅です。それでもまだ人との関わりを希求しなければならないのか。とても繊細なメンタリティが描出された作品です。こうした本に惹かれがちで、つい読みたいなどと思ってしまう「読者」にとっては、まんまと共感の蟻地獄にはまっていく、地獄の読書時間をお約束できます。かなり、しんどいです。

物語はイザベルの幼少時代から始まります。彼女の複雑な性格形成に多分に影響を与えたのは実の母親です。母親はバランスがとれた人ではありません。母親自身が自分の中の怒りに苦しめられており、その感情のはけ口として存在していたのがイザベルです。母親なりに良かれと思ってやっていることさえ、子どもにとっては理不尽このうえないという不幸な関係。こうして、イザベルの性格は次第に歪曲し、自分には何も手に入れる資格がないように思いこんでいきます。母親の死はイザベルにとって、哀しみよりも安堵を与えるものであったことは腑に落ちます。でも、そこに罪悪感を感じてしまうのもイザベルです。母親の圧力下に置かれた子ども時代からずっと、イザベルの慰めになっていたのは読書でした。母親の死後、自活するようになり、働きながら専門学校にも通う日々。ひとり外食しながら、本を広げる時がイザベルの心安らぐ時間でした。それなのに、カフェで詩を朗唱し、文学論をたたかわせる楽しげな男女グループに、自分が憧れていた人生を見てしまうイザベル。そこに仲間として加わることになった彼女は、歓びと同時に沢山の当惑を得ることになります。時折、心の隙間から顔をのぞかせる「屋根裏のみそっかす」が、色々な可能性を潰していくのです。普通に人生を謳歌できないのは何故か。自意識の虜となっているイザベルが、最後に見いだしたものに、救いがあればと願わずにはいられなくなる。そんな物語です。

「毒になる親」というキーワード。親の精神が健全ではないことは、子どもとって、あらかじめ磁場が狂ってしまった状態です。この作品は、母親が死んでもなお、呪縛を受ける子どもの心の迷走をビビットに描き出していきます。これはもはや親による呪いです。親の虜囚。そこから早期に救い出されるにはどうしたらいいのか。国内作品ですが、篠原まりさんの『マリオネットデイズ』もそうしたテーマを孕んだ挑戦的な作品でした(この作品、2007年の発行なのです。時代を先取りしていましたね)。愛情と虐待がないまぜになったものに対して子どもはどう抵抗したら良いのか。おかしな親を「切り捨てる」ということを児童文学が肯定的に描くのは、いまだに難しいことだと思いますが、新しい地平を見せてくれる作品の登場に期待したいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。