凍てつく海のむこうに

SALT TO THE SEA.

出 版 社: 岩波書店

著     者: ルータ・セペティス

翻 訳 者: 野沢佳織

発 行 年: 2017年10月


凍てつく海のむこうに  紹介と感想 >
沈没した大型客船といえば、タイタニック号やルシタニア号が思い浮かびますが、それよりも多くの被害者を生んだ歴史的な海難事故があります。いや、事故ではなく、戦時下で故意に民間人を満載した船が撃沈された事件です。ヴィルヘルム・グストロフ号沈没事件。その死者は九千人を越え、乗船していた人々の九割以上が命を落とした未曾有の惨劇として記録されています。1945年、ソ連に侵攻された東プロイセンから人々を避難させるためにドイツ軍が決行したハンニバル作戦で、その船は多くの人々の命を救う使命を帯びていました。傷病兵など一部の軍関係者を除けば、民間人の避難民が乗員大半を占めていたグストロフ号は、出航してから九時間後にソ連の潜水艦から発射された魚雷によって撃沈され、あえなくバルト海の沖合に沈みます。一万人以上の人が乗り込んでいた船の定員は、実は千四百名程度であったため、装備されていた救命艇の数では満載の乗員を救うには不十分でした。摂氏4度の海中に落ちれば、救命胴衣を着ていても心臓がもたない。沈没しようとする船上を逃げまどい、夜の海に投げ出された人々は、この極限状況で、どうやって自分の命を繋いだのか。物語はこの船に乗りこむことになった、それぞれ重い事情を抱えた若者たちを描いていきます。臨場感あふれるパニック描写と、戦争が人々に与えた苦しみと、過酷な運命に抗いながらも生き抜いていく生命力が活写された、読み応えのある作品です。

心の中の「狩人」に追いたてられている若者たち。ソ連軍の侵攻から逃れて安全な場所に避難するために一緒に行動することになった彼らは、自分の素性を口にすることはありません。ここまであまりにも傷ついてきたために、彼らは他人に対して強い警戒感を持っています。そして、被害者でありながら、加害者としての罪悪感にも苛まれていました。絵画修復士の青年フローリアンは、ナチスの違法な美術品蒐集に我知らず手を貸していたことに忸怩たる思いを抱いています。リトアニア人の看護士ヨアーナは、自分の迂闊な行動で従姉妹とその家族が拘束され、命を落としたことに責任を感じています。フローリアンが命を救った十五歳の少女エミリアは、ソ連兵の暴行を受け妊娠し、臨月を迎えていました。ポーランド人である彼女は、その身元がわかれば収容所に送られてしまうのです。極寒の過酷な自然環境と物資の欠乏。そしてナチスドイツの圧政とソ連の攻勢。人の心は荒んでいき、他人を犠牲にしてでもこの窮地から逃れようとしています。人の裏切りによって犠牲にされ傷ついたエミリアと、人を犠牲にしてしまったことで傷ついているヨアーナ。若者たちの心の波動が交差し、気持ちを寄せ合い、魂の連帯が生まれていきますが、運命の時もまた近づいています。物語は後日談として、四半世紀後の世界も描き出します。ルシタニア号の沈没から始まる物語『月にハミング』のように、この惨事を生き延びた人々にも、多くのドラマが待ち受けていたのだろうと感慨深く思います。

ソ連軍の侵攻というと、祖母から聞いた第二次世界大戦後の満州の話が思い出されます。町を略奪してまわるソ連兵たちのことを、憎悪を持って語っていた祖母の言葉には、子ども心にも恐怖を抱かされたものでした。後に本を読み、事実関係を捕捉しましたが、当事者の語る戦争体験はやはり衝撃的です。海外の児童文学にはこうした体験を描いた作品が少なくなく、被害者だけではなく、「残虐になれる人たち」のことも逆照射します。かつての国内の児童文学の中では、中国や南方で自分が兵隊として「やってきたこと」を子どもに話す(ないしは沈黙する)大人が登場することがありました。従軍経験のある大人は、さすがにリアルタイムの児童文学では登場しない時代になりましたが、その心の闇を紐解くことには、現代でも意味があると思っています。この物語にはアルフレッドというナチスドイツの下級兵の青年が視点人物の一人として登場します。矮小で姑息な性格をした、ナチスの理想を信奉することで自分の誇りを維持しているような青年です。彼がフローリアンに騙されて利用されることは痛快でありながらも、どこか可哀想で憎めないところのある等身大の俗物です。こうした小市民が、戦争の残虐行為を正当化してしまう心理にこそ恐れるべきものがあると感じています。ごく普通の人が残虐な加害者になりうる心の隙間が存在するのだと心に留めるべきですね。