出 版 社: 理論社 著 者: 梨木香歩 発 行 年: 2011年04月 |
< 僕は、そして僕たちはどう生きるか 紹介と感想>
本書のタイトルから想起されるのは、やはり『君たちはどう生きるか』でしょう。宮崎駿さんが、その同名のタイトルとインスパイアされた内容でアニメ作品を製作されるとの発表が昨年末にあり、本年(2023年)公開の予定なので、また話題となり、読み返されることと思います。2017年のコミック化で一大ブームになったことも思い出されます。本書『僕は、そして僕たちはどう生きるか』が刊行された2011年にも、ポプラポケット文庫から新装刊行されており、二十一世紀前葉においても、1937年に刊行された『君たちはどう生きるか』の存在感は健在でした。本書もまた『君たちはどう生きるか』にインスパイアされた物語です。主人公の少年は、おじさんからコペルというあだ名をつけられ、両親や友だちも皆、そう呼ぶようになります。『君たちはどう生きるか』の主人公にちなんだものですが、それは彼が、物事の実存についてちょっと哲学的なことを言い出したり、両親ともに研究者であるインテリ家庭に育ったためか、妙に小難しい物言いをしたりする子どもだったからです。だからといって鼻持ちならないタイプではなく、育ちが良くノーブルという印象を抱かされます。なによりも繊細であり、本書で遭遇した「事件」を巡り、大いに心を揺さぶられ、考えを深めていくような資質があるのです。どこか往年の小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主人公を彷彿とさせられるところがあるのは、クールでユーモアを持ったナイーブな少年ながら、理想を抱き、生き方を真摯に模索しているからでしょう。コペル君が「どう生きるか」という重い命題を、どうして意識することになったのか。本書が突き詰めようとするこの世界の「歪み」に、子どもながら対峙し、越えていこうとする強い意志を意識させられるタイトルです。
染色家のおじさんから、除草剤や排気ガスの影響を受けていない清浄ヨモギを摘みたいと相談されたコペル君は、友人の優人(ユージン)の家の敷地のことを思いつきます。早速、訪ねることにしますが、以前からユージンを知るおじさんも、彼が小学校の終わりから不登校になり、中学に入ってから一度も登校していないという話を聞き驚きます。両親が離婚し、父親と二人で暮らしているユージンが、何故、不登校になったのか。コペル君も友人でありながらその理由を知りません。裕福な農家で、広い敷地に屋敷を囲む防風林がめぐらされた森のように鬱蒼としたユージンの家。コペル君は、そこに訪ねてきたユージンの従姉のショウコとも再会します。ひとつ年上で、しっかりしているけれどちょっと変わったところのあるショウコに、コペル君は微妙な距離感を覚えていました。ふとした話題をきっかけに、ショウコはユージンに隠していた、ある秘密を口にします。それは、この家の敷地に「隠者(インジャ)」を、数週間前からかくまっている、という謎めいた事実でした。果たしてインジャの正体は、ショウコのガールスカウトの先輩である年上の少女でした。インジャは自分の意志で、世の中から姿を消したいと考えていました。その痛ましい理由を、後にコペル君は知ることになります。まだ中学生であるコペル君が、ユージンやショウコ、インジャとの関わり合いの中で、この世の中に存在する、人を絡めとり従わせていく不合理な力について考えを深めていきます。人を屈服させるファッショはすぐ傍にある。そんな世界で「僕たちはどう生きるか」を問いかける、思索の物語です。
インテリは概して脆弱です。リベラルで教養主義で、エコロジカルで自然礼賛であったりする、要は上品で意識の高い人たちだからです。その仮想敵は、保守的で、独善的で、一方的で、声が大きい人たちです。世の中の大勢が、そうなった時、自分は自分の意思を貫けるのか。物語はファシズムや戦時下に良心的徴兵拒否をする勇気についても言及しますが、むしろ、日常的なところで人を強制し、不合理に従わせようとする力が脅威として描かれています。リベラルで意識の高い人は、自分と違う意見でも耳を傾けるべきだと考えているし、人と融和することが大切だと思っています。一方で、世の中には自分の信じる正しさのみを振りかざし、人を従わせることに躊躇がない人がいます。両者とも、それぞれの善意と正しさに基づいているため、ここに不幸な関係が生まれます。コペル君のおじさんは、世の中にはこうした、意見と意識が違う人同士の軋轢があることを匂わせますが、物語冒頭のコペル君はまだ、実感として受けとることはできません。インジャになったショウコの年長の友人の物語は、意識の高い少女が、もっともらしい大人の理屈に篭絡され、結果的にアダルトビデオに出演することになってしまった顛末を描きだします。ユージンが登校拒否になった理由も、かわいがっていたペットのニワトリを、担任教師に、食育のために供出させられるという痛ましい事件があったからです。不合理だと思いながらも、周囲がそれに賛同している時、自分一人では抵抗できなってしまう恐怖が描かれます。ユージンの事件の傍らにいながら、何も気づいていなかった自分にコペル君は大いに自省することになります。哲学的には、思索を深めるために、隠者や孤独な散歩者や屋根裏部屋の住人になることが推奨されるかも知れません。一方でコミュニティと融和するべき、という至上課題もあります。意識の高い人はそこで理想に縛られて大いに悩むのです。自分の善意を貫くには、コミュニティの意思に背かなければならない時がある。「僕たちはどう生きるか」の問いかけは非常に重く響きます。梨木香歩さんのデビュー作『西の魔女が死んだ』では、不登校の少女が、先達である祖母から、この野蛮な世界で「繊細な少数派(魔女)」として生き抜く術を教えられました。本書はそこから数歩進んで、自分がコミュニティをどう作り、どう人に声をかけるべきかまでが意識されます。僕、だけではなく、僕たち、という主体性がここにあります。これは中学生には難題です。とはいえ、子どもたちを啓蒙する光にみちた物語であり、ここに『君たちはどう生きるか』のスピリットが踏襲されていると思うのです。