天使で大地はいっぱいだ

出 版 社: 講談社

著     者: 後藤竜二

発 行 年: 1967年


天使で大地はいっぱいだ  紹介と感想 >
小学六年生男子のプライド。それは、新米の女の先生なんかにナメられたくないってことです。東京の音楽学校を卒業したばかりのお嬢さんで、「おわかくて、おきれいで、モダンで」なんて、お母さんや女の子たちから憧れられる、そんな先生の言うことを聞かなきゃならないとは。せっかく最上級生になったというのについてない。だからサブは、担任の先生、キリコに徹底抗戦することを誓ったわけですが、どうも調子が狂ってしまうのは、キリコがわりといい奴だってことなのです。女子なんてあっという間にキリコの味方についてしまうし、実はサブにだって、だんだんとキリコのいいところがわかってきているのです。キリコはけちな文句をつけるようなことはしないし、本当に大切なことを生徒に伝えようとしている人です。子どもたちと一緒に遊び、歌を歌い、野球にも夢中になる。教頭先生からは「人間としてはともかく、教師としてはどうか」なんて、お小言をもらうような先生なんだから。最初はどうにしかして、からかってやろうと思っていたサブも、悔しいけれど、キリコを好きにならずにはいられなくなって・・・・・・いやいや、そんなに簡単に人に心を許してはダメなのだ、なんて意地をはるサブの葛藤にはニヤリとさせられます。新米先生のキリコと元気なサブたちが過ごす、おおらかな日々。北海道の石狩平野を舞台に、農家の子どもたちが通う小学校で繰り広げられる物語。牧歌的なだけではなくて、ここにはまっすぐに生きることの美しいスピリットと祈りがあります。

農家の五人兄弟の四番目のサブ。家は農家で農作業も手伝っています。都会からきたキリコは農家の子どもたちが家の仕事を良く手伝い、農作業に詳しいことに感心したりしますが、そんなのは農家の子としてはあたり前のことなのです。他にもあたり前のことがあります。例えば、弱いやつがいじめられていたら、助けに入ること。それが隣のクラスのあまり知らない奴だって、チンピラ中学生にからまれていたら一緒になって戦います。卑怯なことはゆるせない。人が恥をかかされているところを黙って見ていられない。困っている人間がいたら、助け舟を出す。たとえちょっと仲違いしていたって、そいつが入院したっていうのなら心配するし、お見舞いにいこうと思う。ワルガキかと思いきや、サブはなかなか骨のある少年なのです。頼れる兄貴たちや、おしゃべりだけれどかわいい妹、両親や祖母など、サブの家族の雰囲気もいいんですね。人間がおおらかに育つにはやっぱり愛情に育まれることが必要なのかも知れません。そんなサブの家にはやたらとキリコが遊びにくるようになって、東京の農学校を中退して戻ってきた長兄のノブさんと、ちょっといい感じになっていきます。そんな二人を見ているサブの視線、なんてあたりには絶妙の間があります。

理想を高らかにうたいあげる先生がいます。誰かのために心をつくしてみよう。自分のやることにプライドをもとう。そんな先生の真摯な訴えに、生徒たちは心を開かれ、互いの気持ちを理解しあえるようになっていきます。やがて「ほめてもらったり、ほうびをもらったりするためだけにやることはぐれつだ」なんて立派なことを、小学生男子が教室で本気で言い出したりするし、皆んながその意見に賛同するのです。実に健全な倫理観。大いに語られる理想は、けっして上滑りすることなく、輝ける時間として、ここに美しく結ばれていきます。理想を共有できる共同体。手放しにそんな言葉を、教室で大いに語ることのできる時代だったのか、あるいは時代の風潮に反駁しながら、この時代の児童文学の中だからこそ輝かせたかった作者の希望だったのでしょうか。それにしても、心が豊かすぎる先生、という人がたまにいて、そんな先生に担任してもらえることは、子ども時代のすごくラッキーな出来事だと思いますが、それは教育や学校というシステム外の不確定要素であって、誰でも享受することができる幸運ではありません。これも人生のアタリハズレのひとつです。愛すべき家族がいるということもそうなのかも知れません。すべての子どもたちが、そうした豊かさに満たされることはありませんが、そんな幸運を感謝とともに思う存分にいとおしむ、その姿勢だけは、どんなに時代が変わっても持ち続けられるものかも知れないし、児童文学が子どもたちに伝えていくべきもののひとつだと思うのです。