なるかみの午後

出 版 社: あすなろ書房

著     者: 今村葦子

発 行 年: 1992年09月

なるかみの午後  紹介と感想>

少年もまた感傷的になります。センチメンタルかナイーブか、表現は違うものの、胸に秘めた痛みに切なくなって、物思いに耽ることがあります。そんな季節が、友だちと馬鹿騒ぎをするような元気で乱暴なだけの少年時代に兆していく瞬間を文学は捉えていきます。それこそ北原白秋の少年詩の昔から、この感覚表現は受け継がれてきました。ただの悲しみとも違う切なさ。近代日本文学にはこの感覚が溢れています。児童文学でも、横並びで歩いていたはずの友だちが、ふいに大人びてしまう瞬間などに、ふと寂さを感じてしまう気持ちが描かれることがあります。輝かしい希望だけはなく、郷愁や哀愁、そして感傷に、人は胸を焦がされることがあります。やもすれば憂鬱にもなるマイナスの感情ですが、どこかロマンティシズムと中和して、悲しみと甘やかさが止揚するのです。全てが上手くいくわけではない人生の裏側で、人の心に忍び寄り、時に人を支え、慰めてくれるものともなります。少年時代の、この哀感は蟲惑的で、惹きつけられて止まないものがあります。ところが、この哀しみは、具体的に何か悲しいことがあったから生じるというわけでもなく、もっと根源的なものに起因していることもあります。その先にある世界を知ること。それは、少年に新しい世界が開かれる時です。自分の内側に向かった目は、やがて人の心の不思議をも捉えます。その思唯こそが、自分そのものであるような感覚にも惑わされるものです。この短い物語は、そうした感覚が実に鋭く表現されており、胸に深く突き刺さる秀作です。別離の悲しみと出会い、そしてそれを越えた真理に到達していく、驚きの物語です。あの夏休みの経験が、活動的な少年の心を成長させ、秋に一人、部屋でほおづえをついて物想いに耽る思索的な少年に変えていきます。100頁もない短い作品ですが、この濃厚な空間を是非、味わって欲しいと思う見事な物語です。

夏休みの終わり。友だちと遊んだ後、家に帰る途中、突然の雷雨に〈ぼく〉は自転車ごと公園にある屋根つきのあずまやに避難して、雨宿りしながら降りやむのを待つことにしました。〈ぼく〉が背後に人の気配を感じて、気まずくなったのは、それが〈ショキ〉だったからです。ショキは公園に寝泊まりしているホームレスで、〈ぼく〉たちは、いつも、ショキいびりと称して、彼をからかったり、嫌がらせをしていました。そんなショキと二人きりで、ここで雨の止むのを待っている緊張感に堪えられなくなってきたところに、今まで言葉を聞いたこともなかったショキが話しかけてきます。ショキは、少年たちが自分に名付けた、ショキという名前を傑作だといい(これはコジキ→ニホンショキ→ショキという由来です)、それをつけた少年たちのリーダーである、ガッチは一緒ではないのかと聞きます。ショキの深くやさしい響きの声に、〈ぼく〉は、恐々としながらも話を始めることになります。明日、ガッチは自分たちの街を離れていきます。家族が引っ越した後も一人残って、友だちの家に順番に泊まりながら、最後の夏を一緒に遊び尽くしていたガッチ。いつも仲間たちをリードしてくれていたガッチがいなくなってしまう。手紙さえ書くなという強気のガッチの一方で、〈ぼく〉は寂さを隠せません。そんな思いを打ち明けてしまった〈ぼく〉に、ショキは話を始めます。それは、これまでに思いもしなかった心の世界を〈ぼく〉に垣間見せるものになります。少年の世界が一変する、ほんの一度だけの邂逅。ショキの言ったこと、そして、言わなかったことが、小学五年生の〈ぼく〉に、この先の未来を予見させ、そして自分が未知であることを認識させます。複雑な気持ちがない混ぜとなり、茫然としたまま立ち尽くす、そんな少年時代の終わりと新たな始まりの刻がここに刻まれるのです。

少年はショキの話に慄き、心を奪われます。ガッチが居なくなってしまった淋しさだけではなく、〈ぼく〉の心の中には、渦巻く何かがが生まれてしまったのです。秋の日、頬杖をついて、物思いに耽るようになった少年は、あの夏の日に、ショキをからかうことに興じていた少年ではありません。人間はどこからきて、どこへ行くのか。ショキから聞かされた話は、不可思議で、人生そのものを暗示する示唆に富んだものでした。『心はいつだって、上手に人をたぶらかす。だからいつも、気をつけて見張っていなくてはいけない』とショキは言います。ガッチが居なくなることを悲しむ〈ぼく〉に、ショキは、人は、そもそも別れることができるのだろうかと問いかけます。悲しみ自体を解体してしまう、その思唯は、少年を戸惑わせます。ショキは人生の真理について語り、自分もまた道の途中にいて、また旅に出ることを少年に伝えます。これまで意識してこなかった形而上の世界を、突然に見せられてしまった〈ぼく〉は、ただただ、もの思いに耽ることになるのです。形而上の世界に真理があり、一過的な感傷など意味もないかどうか。それでも、どこかガッチにはこの思いが共有できるような気が〈ぼく〉にはしています。ただ、そのガッチもまた、ここにはいません。〈ぼく〉はここからどこへ行くのか。あの雷の午後、出会ったショキ。心がだるいような気持ちを持て余したまま、〈ぼく〉は、「雷」は「神鳴り」であり「鳴神(なるかみ)」と言われることを思います。どこか岡真史さんの詩、『みちでバッタリ』(『ぼくは12歳』蔵)を思い起こさせるのですが、神と会ったのかも知れない、と思うような瞬間を少年が迎える、なんだか凄い物語です。