かさねちゃんにきいてみな

出 版 社: 講談社

著     者: 有沢佳映

発 行 年: 2013年05月

かさねちゃんにきいてみな  紹介と感想>

小学校の同じ登校班の8人の子どもたちが、一緒に登校しながら、たわいもない会話を交わすことだけで進行する物語です。それだけのお話なのに、実に深く子どもの心の世界を浮かびあがらせる傑作として高い評価を得ている一冊です。二十一世紀の児童文学屈指の名作とまでいうと大仰ですが、その手法やテーマや表現や構成など、いずれをとっても特筆すべき点に溢れたハイセンスな物語だと僕も思います。子どもたちのナチュラルなボケ具合が楽しく、そこにツッコミが入らないままスルーされていく流れも心地よく、ただただ子どもたちの会話を読んでいるだけで、なんとも面白いのです。これはコミックの『団地ともお』の小学生たちのコミカルでペーソスのある会話にも通じるものがあります。そんな空間を文章表現だけで見せてくれて、さらに子ども心の深層や切なさを感じ取らせる感覚が絶妙なのです。子どもたちのやりとりは現代的で、言葉遊びの感性のセンスが光ります。一方で、けっしてドライにはならず、昔ながらの「やんちゃ」さ全開のパワフルな情景も映し出されます。そこに忍び寄ってくる影があり、それをものともしない希望が物語に結ばれているところに力強さを感じます。主人公の小学五年生の男子、ユッキーこと上原孝行の視座から語られる物語は、たわいもない失意からスタートします。それは大人びはじめた自意識の表れであり、明るく楽しいだけではいられなくなった意識のフィルターから子どもの世界が俯瞰されています。かといって冷笑的になることなく、大げさに絶望しながらも真摯であるのは、彼にはリスペクトすべき存在である登校班の班長、かさねちゃんがいるからです。これはユッキーの語りによる、カリスマ的リーダーかさねちゃんが仕切る登校班、間宮小学校・南雲町二班の栄光の日々です。十一月十五日から十二月二十三日の一か月ちょっとの毎朝のにぎやかな登校風景。そこから垣間見せられる繊細な物語が実に秀逸なのです。

ユッキーはひとつ上の学年の六年生の登校班班長、かさねちゃんの、南雲町二班を統制する手腕に感服しています。そして、かさねちゃんの人間性に心服しています。仙人のように穏やかで、博識で賢明。登校班の聞き分けのない下級生たちも、かさねちゃんに「ちゃんとしなさい」と言われたら素直に従うほど人望があるのです。なによりも、かさねちゃんは、うるさいだけの登校班の下級生たちにもうんざりしていない。ユッキーはかさねちゃんのことを、頭も性格も良くて、顔もかわいくて、誰からも悪口を言われてはいけない人だ、とまで思っています。ユッキーは、かさねちゃんが小学校を卒業した後、自分がこの登校班の班長になって統率していかなければならないことに頭を悩ませています。かさねちゃんのようには自分はなれない。例えば、同じ登校班の四年生、リュウセイのことをどうすべきか。リュウセイは手に負えない子どもです。この物語の中でリュウセイには障がいがあるとは言明されていませんが、その行動は「普通」の範囲を逸脱しています。知能には問題がないようですが、教室を逃げ出し、奇声をあげ、暴れだす。その反応や態度から、おそらく自閉症スペクトラムの中のどこかに位置づけられる状態だと推測されますが、五年生のユッキーの観点で進行する物語の中では、そうしたことには言及されず、ただ困った子だと思われています。リュウセイが、ちょっと普通ではない母親からのネグレクトを受けていることも、その言動や態度から垣間見え、そんな難しさにも子どもには手に余るものです。ユッキーはリュウセイを迷惑な存在と考えていて、この登校班からいなくなって欲しいとさえ願っています。やはり、自分が班長になってリュウセイを統制していくことは難しいと感じているのです。これからを不安に思うユッキーから、どうしてリュウセイとうまくやれるのかと問われて、かさねちゃんは、自分には「傷つけられる準備がある」のだと答えます。リュウセイが思い通りにならないということをあらかじめ受け止めているのだと。そしてユッキーたちもまたリュウセイと一緒にいることを受け止められていることを思い起こさせます。リュウセイに同情するわけではなく、イヤだと思いだながらも共生していこうとする意志を子どもたちが持っているあたりは、実に頼もしいところなのです(物語の構図としては『はせがわくんきらいや』に近しいものがありますね)。責任を重く感じるのは、ユッキーには責任感があるからです。かさねちゃんの励ましを受けて、ユッキーもまた班長として、その任を務めていこうとします。ね、かさねちゃんって、すごい人なんですよ。

かさねちゃんが考え深い子どもであることは確かなのですが、何を考えているのか、わからないところが面白いところです。何分、物語の中では、下級生の子たちからの視座からしか語られないので、リスペクトすべき先輩としてしか映しだされていません。インカ文明とマヤ文明とアステカ文明が好きで、いつもその手の厚い本を抱えていたり、登校班の子たち、自分の作った物語(ヤシュナとヤシュハという双子の物語なのですが、かなり面白そうなストーリーです)を語ってきかせたり。下級生たちの質問に当意即妙の答えをする、その言葉のセンスも際立っています。なぜ、こんなに達観した小学生が存在しているのかわからないのですが(その家族関係なども少なからず垣間見えるのですが)、謎めいていて、クールでカッコいい。同級生から見るとどうなのか、なんて視点を感じさせないところもいいんですね。全国的に登校班がどの程度、健在なのかはややわからないところです。都市部と地方では随分と違うでしょう。自分が子どもの頃は、登校班でのレクも盛んで異年齢集団で遊ぶという経験ができました。そこから感じ取ったものは大きかった気もします。横並びの人間関係の中での難しさが描かれがちな国内児童文学作品ですが、登校班という異年齢集団がもたらすものを、現代に見せてくれたことは新機軸ではなかったかと思います。学校という世界は、教室という閉じた空間だけのものではないという、そんな広がりも感じさせられる物語です。