こうばしい日々

出 版 社: あかね書房

著     者: 江國香織

発 行 年: 1990年09月

こうばしい日々  紹介と感想>

「こうばしい」という形容詞が、ややどうかしているタイプの人のことを表すようになったのは、ネットスラングからの派生なので1990年代の終わり以降でしょうか。それ以前の用例としては、純粋に、香ばしさを表現するもので、それが少年の物語であれば、焼きたてのポップコーンのような、どこかエモーショナルな香気を想起させられるものです。「Crispy Days」という英訳からするとピザもイメージされます。アメリカに暮らす十一歳の日本人少年の物語は、きな臭さも焦げ臭さも生臭さもなく、実にこうばしいのですが、自分の十一歳の頃を振り返ると、まあ人生の大変な時期であって、闊達な少年のさわやかな日々と似ててもつかなかったことが思い出されます。ということで、物語にもあまり良くない意味での、こうばしさを求めてしまうのが習い性なのですが、本書もさわやか一辺倒でもなく、多少、焦がされた匂いが鼻をすぎるあたりに風味を感じています。個人的には、ウィルという青年が気にかかります。日本マニアで小学生しか友だちがいない、このイケていない男子大学生は、主人公のお姉さんに気があるらしいけれど、まったくもって相手にされていません。そして、ちょっと侮られても、苦笑で応えてしまうのです。この女子大生のお姉さんもまた実に尊大に男子たちをあしらっていきます。大学生男子たちはおおよそ気弱で心優しいのですが、不甲斐ないといえば不甲斐なく、十一歳の主人公の少年からすると、忸怩たるものがあります。アメリカナイズされながらも男子たるものそれで良いのかと思っているフシがある。そんな少年もまた女子の不可解な態度には戸惑うのです。坪田譲治文学賞、産経児童出版文学賞を受賞した高評価の作品です。なんとなく1990年という時代感が透けて見える、というのが、現在(2024年)からの視線です。自分はやはり、別の意味のこうばしさを物語に嗅ぎたいと思ってしまっているあたりに、人としてさわやかさに欠けていることを痛感します。

アメリカ東部のデラウェア州の町、ウィルミントンに暮らすダイこと大介は十一歳の少年です。父親の転勤で二歳の時にアメリカに越してきてから九年。家の中も会話は全て英語とパパが決めたために、日本語も話せず、アメリカ人としてダイは育ちました。学校では日本人なのに算数に弱いことをからかわれるのが心外なのは、そもそも日本人としての自覚がないからか。そんなダイのアメリカンなボーイズライフが描かれていきます。ダイの楽しみは大学の図書館で本を読むこと。学生じゃなければ借りられないので、大学生のウィルに頼んで、借りてもらいます。ウィルはちょっと変わった青年です。ベジタリアンで日本マニアで太宰治を読んでいる。ダイはこの歳の離れた友だちと親しく一緒に行動しています。ウィルは時折、やはり大学に通っているダイの姉のマユコが、デイビットという青年と付き合っていることをもったいないと言いますが、デイビットを高評価しているダイとしては、むしろ男子たちをぞんざいに扱う姉の方に不満があります。女子は不可解でやっかいなものだし、アメリカ男なら女子には寛大であるべきだ、というデイビットの言葉にも、どうにもダイは首向できないのです。そんなダイもクラスメイトの女子、ジルが気になっています。思わせぶりなジルの態度も、またダイにとっては不可解なものです。日本男児は女子にうつつを抜かしたりしないのだ、となけなしのアイデンティティでうそぶいてみたりするものの、心優しいアメリカ男たちと同じく、女子に翻弄されていくのです。冬休み前の親睦会で行われる劇で恋人同士の役を演じることになったダイとジル。それもジルの推薦によるものなると、これはクラスで揶揄われること必至です。十一歳の少年としては、どうしたら良いのやら。ややもめごともあって、ジルとも微妙な空気を持て余すことになりますが、それもまたこうばしい日々の営みです。ほどほどにうまくいくものです。

日本の児童文学作品には海外在住の日本人の子女を主人公にした物語が時々、登場します。ニューヨークに暮らす少女を描いた『小さなジュンのすてきな友だち』(1978年)や本書(1991年)、『シンタのあめりか物語』(1997年)、『ペーターという名のオオカミ』(2004年)、『あおいの世界』(2020年)。『ハングリーゴーストとぼくらの夏』(2014年)のような異色作もあります。会社員の父親の海外駐在に、否応なくついていくことになった子どもが、現地の学校に通いながらカルチャーギャップや現地ならではの事象に直面する物語は、一過的な旅行とは違う体験を子どもたちにもたらします。本書にも、駐在員婦人会のような集まりを作りたがる母親たちの姿が描かれる一方、子どもたちの現地への順応力は高く、その国の子どもたちとも親しく付き合いますが、日本との差異が、おおよそプラス方向で描かれるのが常套かなと思います。気の強い女子と気弱な男子、という構図は、日本でも1990年としてはスタンダードになりつつあったものかと思いますが、アメリカ男はよりジェントルであったのか。ダイの姉、マユコに尻込みしているようで、実はその男たちの優しさは強さであったのか。そんな関係の面映さは、まだ年少のダイとジルにも見出せるところです。人種的偏見も人々のベースにはあるというあたりも見逃せず、またそこに人種的アイデンティティも交差するところが一筋縄ではいきません。ダイの父親もまた、そのモヤっとした感じが、典型的な日本人像を見せてくれます。 色々な解釈の要素があることがまた観賞を面白くするものですね。