ガラスの動物園

The glass menagerie.

出 版 社: 新潮社 

著     者: テネシーウィリアムズ

翻 訳 者: 田島博

発 行 年: 1957年

ガラスの動物園  紹介と感想>

子どもの時の疾病がもとで、片方の足が多少短く、そのため足をひきずり、いつもは添え木をして歩いている娘、ローラ。自分の足音がことさら響いて感じられて、どこにいても気づまりな思いをしてしまい、人目を避けたがる。極度の引っ込み思案になってしまった彼女は、外の世界に自分の居場所を見つけることができず、ハイスクールも卒業することができなかった。商科学校のタイプ教室に通うが、そこでも居ずらくなってしまい、それも断念することになる。もう大人になりながらも、一人で社会的に自立しようという気持ちも持てず、『あなたは、何をやっているんですか?』という質問には『ガラスの・・・蒐集をしています』としか答えようがない生活。実際、ローラは、ガラス細工の動物たちを、集めて、飾ることだけを楽しみにして生きていました。それ以外の何者でもない。外の世界の、普通の交友関係や男女関係に憧れを持ちながらも、外に出れば、その繊細さがゆえに友だちもできず、人とまともにつきあうこともできないまま、傷つけられてしまう。すぐにも壊れてしまう心の持ち主。これがローラという娘です。こうした娘を持つ母親としては、彼女の将来が心配でなりせん。時代は1920~30年代の不況下のアメリカ。娘を自立させることができないのなら、相応の紳士と彼女をつきあせてみようと、母親はローラの弟のトムに、職場の友人を夕食に招くように依頼します。弟が連れてきたのは、かつてローラとハイスクールの同級生で、学校一の人気者だったジム。ローラもかつて密かに思いを寄せていた男性でした。ジムはローラが劣等感にしばられ、何もできないでいることを残念に思い、多くの励ましの言葉を寄せるのですが・・・。

誇りをもって、自信をもって、自分自身を高く買って、恥ずかしがらず、目をそらさず、世の中に向えば、きっと世界が開ける・・・という楽天性は良いのです。しかしながら、誰が彼女の手をひいて、一緒に道を歩いていってくれるのでしょうか。あの時、ローラには、ジムこそがこの部屋の中から引き出してくれる人のように見えたのかも知れません。ローラの弟のトムが、回想の中で思い出すローラのこと。トムは、薄給の倉庫づとめにあきたらず、詩人としての天分を試したいと思っていました。この不況に沈む街、セントルイスを抜け出し、母と姉をふりすてて、自分の世界を見つけに旅立ってしまいます。ひとりきりのローラは、ジムからもらった「忠告」をどう受け止めて、その後、どうしたのでしょうか。ジムは、結局、ローラの手をひいてくれる人ではなかったのです。ただ、励ましの言葉を送ってくれる人にすぎなかった。ジムは既に婚約者がおり、ローラとは二度と会うことはなかった。トムは貧しいアパートに暮らす、自分の母と姉の二人の身を案じながら、過去の寸景に暗澹たる思いを抱きます。そして、隔たってしまった「遠い時間」に残してきたローラを、今、回想しています。 実に、切なく、救いようのないお話です。この作品の繊細さは、ローラの集める、触れただけで壊れてしまいそうなガラス細工の動物たちが象徴しています。作品の魅力は、それぞれ描きこまれた登場人物たちの科白から伺われる、ぎりぎりの煮詰った感情のせめぎ合いであり、ローラという「純粋なもの」を守ろうとするお節介な家族の過度な愛情が、裏腹にもたらしてしまった不幸の哀切であるかも知れません。この『ガラスの動物園』は小説ではなく、戯曲(芝居の上演台本)です。初演は1944年。今から、70年以上も前の作品です。とはいえ、ふと、世間の軋轢に耐えかねて、引きこもってしまったり、教室の隅で誰と話をすることもなくうつむいている、現代の子どもたちのことを思い出します。その中には、既に、大人の肉体になってしまった子どももいるのかも知れません。外の世界と交歓するチャンスは何度か繰り返され、果たされないまま、時間だけが過ぎていき、過去に埋もれてしまい思い出の人になってしまった。そんな人もいたかも知れません。一方で世の中には、表面では、最大限の社交性を発揮しながら、ガラスの心を見せまいと必死に闘っている大人の顔をした子どももいるのかも知れません。ローラは、いつまで、ガラスの心を抱えて、あの動物園で過ごしていたのでしょう。救いの手は、決して、届かないままに、彼女の存在は、忘れられていってしまったのかも知れません。エンタメとは違い、文学作品は酷薄な結末で、深い印象のみを心に刻んでくれます。この哀切のみを偲ぶべきものなのかも知れませんが、まあ、ベタな感想としては、学生の頃に読んだ時と同じで、残酷だなあ、ということに尽きます。

もっと若い頃は、幸運な可能性が、こうした苦境を、いつかは覆すものと楽天的に思っていたのですが、相応に年をとってしまうと、いつまで待っても「こないものはこない」という運命もまた享受すべきかも知れない、と思うようになりました。愛されなかったときどう生きるか。無論、理想の答えはあるのですが、空論かも知れません。かつて読んだ作品を、再読して、どの程度、自分の感性に変化があったか計ってみようと思いましたが、少なくとも、「淡い期待」からは遠のいていることはたしかなようです。広義のYA紹介や、児童文学紹介をしているサイトなのですが、こうした名作もまた、「広義」の範疇として、同じフィールドでとりあげてみたいと思いました。現代の中高生にも読んで欲しい作品です(このレビューは、僕の手許にある学生の頃に買った田島博訳版をもとにしていますが、現在、新潮文庫は小田島雄志版になっています)。