その魔球に、まだ名はない

Out of Left Field.

出 版 社: あすなろ書房

著     者: エレン・クレイジス

翻 訳 者: 橋本恵

発 行 年: 2018年10月


その魔球に、まだ名はない  紹介と感想 >
天才ピッチャー、ゴードンは、もうすぐ十歳。そのナックルボールの切れ味は、リトルリーグの選抜試験を受けないかと誘われるほど。友人でキャッチャーのピーウィーと一緒に受けた試験に二人そろって合格したものの、ゴードンにだけリーグに参加することを拒否するとの通知が下されます。理由は、ケイティ・ゴードンが女の子であったからです。どんなに凄い球が投げられても、女子はリトルリーグに参加できないのが、この当時のルールだったのです。野球はずっと男子のものであったとのリトルリーグの協会の見解に、ケイティは異を唱えます。大学教授の母親と相談し、弁護士のアドバイスを受けて、手紙を書いて訴えても協会を説得することは難しく、ケイティにはどうにもできないまま。ちょうどその時、学校の研究プロジェクトで、自分の身近なヒーローについてレポートを書くという課題が出されます。ケイティは協会の見解をくつがえすために、野球が男子だけのものではなかったという事実を見つけ出そうと考えていました。彼女にとってのヒーローである、歴史の中に消えてしまった女子野球選手たちを調べていくことが、やがてケイティを新しい世界へと誘います。実に痛快で、また苦味を孕んだ物語です。邦題タイトルから想起されるような、魔球を武器に女子選手が野球で大活躍するストーリーではなく、思うさま野球ができない社会的制約に、女の子が探究心を閃かせることで闘っていく姿を描いた社会派の作品です。イメージしていたものと違っていて驚きましたが、実に興味深いストーリーです。

1957年。この時代の社会背景が大きく物語に反映されています。ソ連の人工衛星計画スプートニクの成功によって、アメリカとの宇宙開発競争は激化していました。科学は発展し、公民権運動が盛んになっても、いまだに偏見は根強く、人種や性別で差別を受けることの多かった時代です。アーカンソー州リトルロックでは、黒人生徒が白人と同じ学校に通うことに市民が反対し、軍が出動した有名な事件も起きています。南部では、いまだに有色人種が白人と同じバスに乗りことも、レストランで食事をすることもできない時代。ケイティは自分の職業に誇りを持つ自立した女性である母親と二人の年長の姉に育てられ、開化した意識を養われていました。女子が野球をする権利を認められない、この世界をなんとかしたい。ケイティはこの時代の空気の中で、虐げられる人たちの権利のために闘うことを意識していきます。そして、その難しさも痛感させられるのです。図書館に通い、過去の資料を探し、かつて女子が野球選手として男子と一緒に活躍していたことや、女子リーグの存在を突き止めたケイティ。失われた記録を補完するため、かつて女子野球で活躍した選手たちにインタビューも試みました。ケイティがまとめたレポートは、やがて大きな反響を呼んでいきます。果たして、ケイティが自由に野球をできる未来は実現されるのか。小学生がプロ野球選手をその魔球で三振させることも痛快ですが、胸踊るような興奮がその「調べる」という行為にもある。そこが等価であることがまた良かったですね。

現在のようにインターネットやデータベースにアクセスして情報を引き出すことができない時代です。それでも雑誌のバックナンバーがちゃんと図書館にはキープされていて、かつての記事を頼りに、記録を紐解いていくなんてあたり、刺激がありました。精度はまだ高くないようですが、すでにコピー機もある。資料を見つけ、人から話を聞きレポートをまとめていくプロセス自体が、ぐいぐいと読ませる物語になるんですね。それはちょっとしたミステリーの謎解きのようでもあります。ケイティの友人のピーウィーは日系人で、日本人初のメジャーリーガーを目指しています。彼は学校のレポートの発表で、ヒーローとして自分の祖父の話を話をします。戦時中、日系人が身柄を拘束され、収容所に送られていた事実。彼の調査のプロセスもそれだけで物語になりそうです。『スピニー通りの秘密の絵』や『川のむこうの図書館』など、現代を舞台にした作品でも、こうした図書館を使った「調べもの」が登場します。図書館で調べて、さらに聞き込み調査を行うという過程は一緒で、子どもたちが結論にたどり着こうとするプロセスには同じワクワク感があります。スポーツもののようなタイトルに、うっかりこの本を手にとった子どもたちが、図書館で「調べる」ことに興味を持ったら面白いのにな、なんて思っていました。米ソのロケット開発競争の陰にあるものや、人種差別問題など、あの時代のホットな出来事を、現代的なセンスで物語にした知的な刺激にあふれた物語です。