となりの火星人

出 版 社: 講談社

著     者: 工藤純子

発 行 年: 2018年02月

となりの火星人  紹介と感想 >
大人もそうですが、子どもは傷つくことが多いものです。人と関われば衝突や摩擦が生じるものだし、子ども同士はわりと遠慮なく物を言うものだから、はっきりと傷つけられてしまう。それを受け流したり、かわすことで、人と上手くやっていくことを学び、社会を渡っていけるようになるものかも知れません。なかなか無傷ではいられないし、苦い話ですが、傷の痛みから感受性が深まることもあるでしょう。こうしたプロセスは成長物語の定石であると思います。いや、処世術を学んだということでしょうか。ただ、それは通常の感覚がベースにあることを前提としています。この物語には、通常の感覚からすると、ちょっと変わった子どもたちが主人公として登場します。診断次第では、病名がつく子も、なんらかの症候群と認定される子もいると思います。そのため、定石通りの場所には物語が帰結しません。彼らの反応はどこか違っているのです。違っていることの失意もあり、傷つけられることも人一倍あるため、そこからの自己修復はより困難となります。とはいえ、通常の範囲にいなくても、一刀両断に正常や異常といった体系で判断すべきではない。この物語は彼らのような「困った子」を「困っている子」として扱っていますが、彼らがどういう存在であるのか、その「社会的な判断」を明確にはしていません。これがこの物語の根幹にある姿勢だと思っています。彼らは作者の優しいまなざしによって守られています。先ずは、そのことが、この困難な物語を読み進められる力になると思います。そして、彼らがあたりまえな子どもたちではないがゆえに、もうひとつ先の場所に結んでいける光があるのだと、その祈りと願いを物語に見ることができるのです。

「火星人」みたいだと同級生の美咲に、かえでが言われたのはそれなりに理由があります。言い得て妙だったのは、かえでの感性が普通の子とはあまりに違っていて、皆んな驚かされてばかりいたからです。かえでは遠慮会釈なく事実を口にします。正しくて間違っていないのかもしれないけれど、それで傷つく子もいます。かえでもまた、自分の言ったことで周囲がおかしな反応をすることに戸惑っていました。人の気持ちを斟酌することができない自分をダメな子であると感じて、傷ついていたのです。頭が良く勉強ができるのに、人の感情を理解できない。この物語の中では明示されていませんが、高機能性自閉症、アスペルガー症候群の典型例です。かえでの同級生の和樹は、小学六年生となっても、突然の衝動で暴れだすことがあり、スクールカウンセリングを受けています。自分の中の「化けもの」を制御しきれず問題を起こし、母親を悲しませていることに、和樹も失意がありました。これもまた明示さていませんが、発達障がいのひとつである注意欠陥障がい(ADHD)に類するものと考えられます。クラスの人気者である美咲もまた過呼吸に陥ることがあり、万全なメンタルであるとは言えません。内省する子どもたちは、上手くやれない自分について悩み考えます。他にもそれぞれに心に痛みを抱えている子どもたちが登場し、その関係性の中で、手探りで心を近づけていくプロセスが描かれていきます。人の気持ちを考えて理解しあいましょう。そんな「道徳的」なお題目に従うだけでは、たどり着けない場所もあります。普通であるという正しさ、が疎外するものを見極める必要があります。それには普通という立場に立たないことが肝要なのかも知れません。やや異次元に捻られた難易度の高い物語ですが、良識やあたりまえで狭くなった世界を拡げていく試みなのだと思うのです。

心配しがちや、心配性と言われる程度ならまだいいのですが、強迫神経症となると治療が必要です(『お父さんは心配性』は心配性ってレベルじゃないですけどね)。病気であることを明確にすることで、治療によって症状が改善して、より良く生きられることもあります。海外の児童文学では、発達障がいに対するサポート自体が物語の大きな要素となっています。普通ではないという前提で、認知方法を補完するトレーニングを受けながら、それを越えたところにある、人の心の中の真理に触れるのがパターンとしては多いかなと。一方で、この物語は、子どもたちの心の状態を障がいであるとは規定しないところに妙味があり、正常とも異常とも判別しないことに意思を感じます。物語は綿密に編み込まれながら進み、最終章に到達します。そこで描き出される気づきは、傷ついた心が癒されるというレベルではなく、もっと大きな根源へのアプローチするものとなっています。火星人でもかまわないし、地球人でもかまわない。カテゴライズを放棄したこの考え方は、同じく工藤純子さんの『セカイの空がみえるまち』に通じるものがあります。主人公である少年は、自分の母親がどこの国の人間かわからないままですが、どこかの国の人であることで、その国にアイデンティティを求める弊から逃れています。どこの国の人であろうとかまわない。このグローバルな発想は、火星人でもかまわないし、ましてや、地球人でもかまわないと発展すると思います。正直、難しいことだと思います。ただ、その理想は大いに語られて良いし、子どもたちにそうした世界の広がりを、いえ、宇宙の広がりを感じとらせていく児童文学の挑戦がここにあります。