どうなっちゃってるの!?クレメンタイン

クレメンタイン
Clementine.

出 版 社: ほるぷ出版

著     者: サラ・ペニーパッカー

翻 訳 者: 前沢明枝

発 行 年: 2008年05月


どうなっちゃってるの!?クレメンタイン  紹介と感想 >
「やんちゃ」や「わんぱく」の許容範囲はどのあたりまでなのでしょうか。児童小説の主人公としては好ましい資質ではあるのですが、ピッピ・ナガクツシタ的な破天荒さが受け入れられるのは、やはり童話的な世界に限られてしまうものですね。「海に出るつもりじゃなかった」のに、沖に流されてさあ大変、ではなくて、あらかじめ太平洋を横断してやろう、なんて心意気。みなぎる冒険心と行動力は、それこそ冒険の旅の途上で発揮されてこそのもので、スクールライフにはいささか過剰な「元気」であるかも知れません。落ち着いて授業に集中することができない。じっと席に座っていることさえままならない。そんな子どもの心の裡はいつもどんな嵐が吹いているのか。元気ハツラツすぎて「問題児」とさえ言われるような子どもたち。いつも校長室に呼び出されては注意ばかり受けている。どうして集中できないの、と言われても、自分なりの世界のルールに従っているだけなんだけれどな、なんて、てんでわかっていない。非常階段を5段抜かしで駆け下りたり、校門の上によじのぼって、平気で飛び降りたりもする。こうしたぶっ飛んでいる同級生を遠巻きにして、茫然と見守っていた大人しい子どもであった僕には、物語のキャラクターとしては面白い、と思っても、なかなか共感は難しい。逆に、元気にまかせて突っ走っていた主人公が、ちょっと立ち止まらざるを得ない瞬間にこそ物語としての魅力を感じるのです。アクティブな子ども心に、ふと芽生えた、寂しさや、切なさ。言葉にはできないけれど、なんか胸がスウスウとして変だぞ、なんて、普段は元気いっぱいの子が感じとっているのを見るのがツボです。大胆不敵だけれど、けっして無神経ではない。そんな心の瞬きが奥行きのある「元気な子ども」の物語を作っているのだと思うのです。本書『どうなっちゃってるの!?クレメンタイン』も、また、そんな一冊です。

なんてついていない一週間。八歳の女の子、クレメンタインの毎日はトラブル続き。なんでそういうことになってしまうのかわからないけれど、校長室に呼び出されてばかり。ひとつ年上の友だち、マーガレットの髪の毛を切るのを手伝ってあげたのに叱られるし、校長先生を手伝ってあげようと、電話に出ておいてあげたのにいやな顔をされる。「集中しなさい」「ゆかにねころがってはいけません」なんて、心外なことを言われてばかり。ちゃんとクレメンタインなりに理由はあるんだけれど。でも、そんなクレメンタインだって、なんにも思わないわけでもない。もしかするとパパやママも、自分を「手のかからない子」と、とりかえたいと思っているんじゃないのかな。パパを手伝って、アパートのハト公害を得意の機転でくいとめたのに、どうやらパパは、クレメンタインの「さよならパーティー」を開こうとしているみたい。しかも「さらば、やっかいもの」なんて文字を描いたケーキまで用意して・・・。好き勝手にやっているようで、実はけっこう、気弱だったり、どうしてうまくいかないのかな、なんて思いながら、それでも元気いっぱいにやっているクレメンタインの日々が可笑しくも楽しく、両親のあたたかい愛情にもほっこりさせられます。つい危なげでヒヤヒヤしてしまうのだけれど、ちゃんと彼女が、両親に見守られているというのがわかるから、安心して見ていられる。ちょっとズレていて、考えなしに行動してばかりのクレメンタインのおかしな毎日。まあ、手がかかってしょうがない子なんだけれど、だからと言ってダメじゃないよ。そう言ってあげたくなるのです。

元気すぎる子のアーバンライフと言えば、ジャック・ギャントスの『ぼく、カギをのんじゃった!』という凄い作品があります(これもまた本書と同じく、前沢明枝さんの翻訳による本です)。ADHD(注意欠陥多動性障害)らしき男の子、ジョーイを主人公とした本ですが、その一人称で語られる世界は、かなりグラグラと揺れていて、ちょっと読んでいて悪酔いしてしまうぐらいです。つまり、元気すぎるとかいう問題ではなくて、もはや一種の病理として語られている本なのです。邪気は一切ないのだけれど、ついつい突飛な行動に出てしまう主人公の男の子は、どうしたわけか持ち歩いているカギを飲み込んでしまったり、よかれと思って刃物を振り回し、他の子にケガを負わせてしまったりします。その、とっちらかった心模様を追体験できるという意味では稀有な作品です。いつも計画通りいかない。何故、自分は普通の子と同じようにじっくりと考えて、ちゃんと行動を完結させることができないのか。周囲の大人たちも、本人自身も悩んでいる問題。この物語は、このような子どもの態度の問題を「性根をいれかえさせる」というあたりに帰結させずに、「医療行為によって治療する」ことで解決します。多少、「考え方」のトレーニングも行われますが、それもまた脳のエクササイズですね。トラブルを起こした男の子は、特別支援センターの援助によって「正常」に近づくことができるようになります。このあたり、「児童文学」の展開としては、けっこう驚きました。例えば「人として在ることの空虚な心の痛み」も「セロトニン不足による脳の機能不全であって、投薬と休養によって治療されるものである」となると、哲学や文学的命題もひっくり返されてしまうのではないか、との懸念があるのですが、児童文学もまた新しいステージに突入している感じがします。さて、ちょっとグッとくるこの物語のツボは、どんなにトラブルメーカーであっても、彼が愛情を与えられるべき存在だということを、わからせてもらえるところでしょう。科学的視点も踏まえつつ、やはり、人が人を思い遣る気持ちに焦点が絞られていくところには、やはり児童文学物語の妙味があるものですね。

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