月白青船山

出 版 社: 岩波書店

著     者: 朽木祥

発 行 年: 2019年05月

月白青船山  紹介と感想>

先日、出社すると職場の時計が動かなくなっていて、12時を指したまま止まっていました。自動で時刻を合わせる電波時計なのに、電池を変えても上手く受信ができず、針がグルグルと回って、おかしな時刻でまた止まるのです。手動で時刻を合わせるしかないのですが、それらしいボタンも見当たらない。ここでユリ・ゲラー氏のことを思い出して念を送ってみた、というのは嘘で、品番からメーカーのWebマニュアルを参照して事なきを得ました。検索すれば大抵のことは解決するという時代のありがたさです。時計が止まることに、どこか特別な意味を感じてしまうのは、目には見えない時間の流れを、象徴的に感じさせるものだからでしょうね。心の中の時計が止まったまま、なんて陰喩も胸に落ちます。失意によって深い悲しみ沈んでいる人は、自ら時計を止めています。電波を正しく受信できなくなって、空回りしては止まる電波時計なんて、悲しみの塊のような存在です。そして物語には、再び時計が動き出して、その針がまた時間を刻み始める展開を期待してしまうものです。本書は、子どもたちが、歴史に封じ込められた謎を解き明かしていくファンタジーです。まだ本当の悲しみを知らず、屈託のない子どもたちの前に、時計を止めたままの人たちが登場します。過去と現在、それぞれに時間が動かないまま、それでも生き続けなればならない人たち。主人公である子どもたちは悲しみの当事者ではなく、人の失意を目の当たりにする側です。読者としては、それで救われるところもあります。覆水は盆に返らないものだし、時計は動き出しても、失われたものは元には戻らない。無常ということ、の痛みと悲しみのかたわらに、子どもたちの未来がある。心の中の止まった時計の直し方は、検索しても明確な解決策が見つかるわけではありません。処方箋としての物語の効用を思いますが、本書の読後にフィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』を読み返したくなりました。そんな気分なのです。

大叔父の住む鎌倉で夏休みを過ごすことになった兵吾(ひょうご)と主税(ちから)の兄弟。楽しみにしていた海外旅行に行く予定がふいになり、両親と離れて、あまり馴染みのない大叔父のお屋敷で過ごすことに、無邪気な弟とは違い兵吾は乗り気ではありません。事業で成功を収めた後、今は一人で隠遁生活を送っている大叔父は寡黙で、兄弟にはとっつきにくい存在でもありました。お屋敷と近隣の里山で過ごすうち、近所に住む少女、静音と知り合った兄弟は、三人で一緒に遊んでいる際に、山の中の切り通しの道を抜けた先にある、見知らぬ谷に行き着きます。そこは八月のはずなのに、桜が赤い蕾をつけた違う季節にある場所。時代劇に出てくるような着物姿の人たちは、驚く三人こそが待ちかねていた救済者だと告げるのです。ということで、過去と現代を結ぶワンダーな冒険が始まります。古都鎌倉。源頼朝の娘、大姫と木曽義仲の嫡男、義高の悲恋をベースに、封印された秘石の謎を子どもたちが解いていく、ロマン溢れる知的な興奮に彩られた物語です。まだ誰かを、強く想い焦がれることを知らない子どもたちが、失われた哀しみに時を止めてしまった人たちの心を垣間見る、そんな構図が、間接的な共鳴をもたらす、奥行きのある響きを味わえる作品です。朽木祥さんが稀代のファンタジー作家であったということを思い出させる、真骨頂がここにあります。

現代の子どもたちが主役の物語ですが、進行形で今を生きている彼らのカウンターにいる大人たちが逆照射されていきます。先祖代々、同じ名前を受け継いでいる兄弟の父親とその兄も同じ名前でした。同じようにこの場所で、静音の母親と子ども時代を過ごした彼らもまた、三人で謎に挑んでいました。その時間は失われたものとなり、痛みを孕んだ記憶として、今も大人たちに残されている。そして、主税と同じ前を持つ大叔父もまた、心に大きな空洞を抱えたまま今を生きています。このあたりが、あくまでも間接的に垣間見えるところが魅力的です。大切なものを失い、時計を止めたままの大人たちが、進行形の子どもたちと一緒に謎を追うことで、微かに秒針が進む程度の哀感がたまらないところです。鎌倉時代にあった、かつての物語にもまた魅惑的で、巻末に付録として寄せられている「大姫異聞」によって、重奏されるハーモニーも見どころです。子どもたちの謎解きの冒険の物語として読むも良し、失われたものへの哀悼を捧げる大人たちの心情にシンクロするも良し。多彩なメタファーに自分の中の知識を掛け算して楽しむ、知的興奮に満ちたワンダーな朽木祥作品を満喫できる物語です。