出 版 社: くもん出版 著 者: 工藤純子 発 行 年: 2022年06月 |
< はじめましてのダンネバード 紹介と感想>
小麦粉で作った薄くのばした皮で、肉などの餡を包み、蒸したり、焼いたり、揚げたりする料理が世界中にあります。代表的なものは中国の餃子や小籠包、ロシアのペリメニなどです。これらを総称してダンプリングと呼ぶようです。この物語に登場するモモという食べ物は、ネパールのダンプリングで、外見は小籠包に似ています。最近、街でネパール料理店をよく見かけますが、店頭の目立つところにモモの写真が飾られており、看板料理になっているようです。さて、同じような料理が世界中にあるという共通点に着目するか、それぞれの料理の相違点に着目するか、ここがポイントです。餃子にサワークリームをかけて食べるなんてどうかしてる、などと言い出すと、全世界で同じ「餃子のようなもの」を食べているという奇跡が台無しになります。何が正しいのかではなく、多少の文化の違いはある、ということを前提として、通い合うものがあることを歓びたい。友好関係を築くには、そこを契機に一点突破すべきかと思います。まずは友好関係を築きたいと考える姿勢ですね。外国人に対して、どのような関心を向けるべきか。ここで好意が働くかどうかが肝要です。転校してきた外国人の子を友好的に迎え入れるにはどうしたら良いか。違っていることを尊重しながら、同じ痛みを覚える人間としての共感を大切にすること。物語は余白で真理を語り、搦手から核心に迫っていきます。その間合いの取り方の巧みさを味わいながら、見えてくるものに首肯できるはずです。ナチュラルに寛容ではいられない時代だからこそ、人はどうあるべきかを考えさせる作品です。
小学四年生の蒼太のクラスに転校してきたのは外国人の女の子でした。エリサ•ビソカルマという呪文のような名前や、その肌の色に教室はわきたちます。日本語が話せないという子をクラスはどう迎え入れたらいいのか。担任の太田先生は、外国語指導員さんもきてくれるし、タブレット端末の翻訳機もあるから大丈夫だと気安く言います。それでもやはり言葉がうまく伝わらないためにコミュニケーションがはかれず、エリサが戸惑いを浮かべている様子を蒼太は感じとります。クラスになじめないまま、なぜかいつも給食の時間の前に帰ってしまったり、特別扱いされているエリサに対して、反感を抱く子たちも現れはじめます。人形のように黙ったまましゃべらないのは何故か。蒼太は、その理由を考えはじめます。エリサのわかりにくい態度は他の子どもたちに不信を抱かせ、それがクラス全体の不和として広がっていきます。エリサが学校に来なくなり、それを自分のせいだと考える、ゆうりに付き合わされてエリサの住むアパートを訪ねた蒼太は、彼女の家庭の事情を知り、また、外国人の子は義務教育の対象外であり、学校に行かなくても良いのだということに驚きます。そして蒼太はエリサが日本語を覚えようとしていた努力を知り、翻訳機を使ったアプローチの仕方の間違いに思い至ります。そんな折、色々なお店で仕事体験をさせてもらう学校行事「弟子入り体験」が始まり、蒼太は「モモ」というレストランを選びました。そこが偶然にも、エリサの父親が経営するネパール料理のお店であったために。蒼太はエリサのこれまで知らなかった一面を知ることになります。引っ込み思案な蒼太は接客が苦手ですが、エリサと一緒に店を手伝いながら、彼女の気持ちに少し近づいていきます。やがて自分からネパールの言葉やどんな国なのかを知ろうとし始めた蒼太は、沈黙を続けていたエリサの心の中にあった沢山の「言いたいこと」に気づいていくのです。
この物語、蒼太のクラスの担任の太田先生が、実にいけない人なのです。まず子どもたちに、外国からきた子どもの事情や背景や留意点を、きちんと説明していません。道義的な正しさと慈愛を持って、どうやってサポートしていくべきかを説くべきだったのに、なんだかゴニョゴニョしているというダメさ加減です。考え方がイージーすぎるし、配慮も足りていない。外国人の転校生だけではなく、児童一人ひとりの立場にたって、それぞれの気持ちを尊重しフォローしていくことが大切だったはずなのに…などと思いながらも、さすがに先生の指導力や人間力にそこまで期待できないものでしょう。実際、先生の不甲斐なさもまた人生のスパイスです(なんて言ってられないケースもありますが、実感です)。子どもたちが手探りで信頼関係を築いていく物語では、回り道こそが本道です。初手から先生が適切な指導をしていたら、自分から歩み寄ったり、理解しようとしなかっただろうと考えると、すべてが必要なプロセスだったのだと思います。最初から答えがわかっていては気づけない。それでも、ちゃんと蒼太のお母さんが賢明なアドバイスを与えてくれるあたりに安心感があります。さて、非常に現代(2022年)的なキーワードである「ずるい」がピックアップされた物語であることもポイントです。羨むのではなく「ずるい」と一刀両断してしまう感覚は、本来、賞賛すべきものさえも切って捨てる危うさがあります。子どもたちのそうした感覚が危惧されて久しい世情にあって、他者へのまなざしの向け方はより意識すべきものでしょう。さて、「餃子にサワークリームをかけて食べるのはずるい」し、『わたしの、ずるい人』というタイトルの本があったら、おそらくは恋愛モノです。日本語のニュアンスの振り幅の広さに、きっと外国の子どもは戸惑うのだろうと思いつつも、いやいやネパール語はもっと複雑な含蓄があるかも知れないのですよね。柔軟な想像力をもって人と向き合いたいものです。