ぼくらは海へ

出 版 社: 偕成社 

著     者: 那須正幹

発 行 年: 1980年


ぼくらは海へ  紹介と感想 >
セイタカアワダチソウが繁る埋め立て地。関係者以外立ち入り禁止のその埋め立て地にある無人のプレハブ小屋を、進学塾の育英塾に通う四人の小学六年生が溜まり場にしていました。何をするわけでもなく、塾の行き帰りに寄っては週刊誌やマンガを読むだけの、ほんのわずかな息抜きの場所。埋め立て地のそばには、「アパラチア山脈」と呼ばれている土砂の大きな山がいくつもあり、丸太や材木などの廃材が捨てられていました。「これで船をつくらないか」と提案したのは四人のうちの誰であったか。その言葉を聞いて、四人と一緒に小屋に出入りするようになっていた嗣郎は目を輝かせます。同じ小学校の同学年だというのに、育英塾に通っているエリートの子たちには格差を感じている嗣郎。勉強ができず、家も貧しい嗣郎は、自分に自信がなくいつもオドオドしています。これまで黙って四人にかしづいていた嗣郎でしたが、船の製作を通じて、大工の父親ゆずりの木工の技術を活かし、すこしずつ自分の意見が言えるようになっていきます。シーホースと名付けられた最初の船は、浸水後まもなく沈んでしまいますが、嗣郎はその反省を活かして、あらたな船作りに挑戦したいと考えます。でも、育英塾に通う四人はそれほど執着がないようなのです。この時、それぞれの心のうちには、一体、どんな思いが浮かんでいたのでしょうか。

嗣郎の父親は大工でしたが、競艇で大当たりをとって以来、真面目に働かなくなっていました。当たったお金もすぐに競艇につぎ込み、借金を重ねています。母親がなんとか内職で生活を支えていますが、貧しさのために家族のいさかいは絶えません。一方、進学塾に通う子どもたちの家庭も裕福であるものの、手放しに幸福というわけでもありません。病院の事務局長の息子の邦俊は、父が愛人を作り、母も興信所の調査でそれを知っていながらも仮面家族を続けている欺瞞を知っています。銀行員の息子の勇は、父親の頻繁な転勤のために転校を繰り返さなくてはなりません。ぜんそくの妹のいる雅彰は、父親が妹ばかりを心配していることに微かな嫉妬を覚えています。幼い頃に父を亡くし、働く母親に育てられた誠史は、母のためにも良い学校を出て良い会社に入らなくてはと思いながらも、その期待の重さに辟易しています。子どもたちには、それぞれにプライドと心のスタンスがあり、親しくしながらも、色々な思惑を交錯させていきます。そして、いつも目前にある受験のために成績をあげなければならないプレッシャー。やがて、彼らは、もう一度、船を作って海に乗り出すという夢想を抱くようになります。新たな仲間として、学校でもリーダー然としている康彦と、粗暴な茂男が加わります。康彦の加入で作業効率が良くなり、新しい船、シーホース三世の完成が近づきます。浮力の調整やマストのバランスとりに試行錯誤しながら、夢中になっていく子どもたち。ところが事件が起きます。嵐の晩、岸につないだシーホース三世が大波に打ちつけられているのを心配して一人で様子を見にきた嗣郎が、決死の覚悟で船のロープをつなぎ換えようとして大波にさらわれてしまうのです。嗣郎を亡くした失意と、危険な遊びを行っていたことを学校から叱責され、子どもたちは意気消沈します。それで熱から覚める子がいる一方で、もう一度、この船で大海に出てみようとチャレンジを志す子どももいます。この閉塞状況を打ち破る危険な旅立ちが、そこには待っているのです。

塾と学校の往復だけの息の詰まるような毎日においつめられる子どもたちが、自殺的とも思える冒険に乗り出していく。そんな衝撃的な結末が論点となりがちなこの作品ですが、じっくりと描かれる少年たちの人間関係や、綿密な心理がとても濃厚で、その心の揺らぎを描く筆致が魅力的です。ひそかなライバル心や嫉妬心。思いくたしてみたかと思えば、相手の良いところは大いに認めることもできる潔い少年らしさ。みんなが学校という場所で楽しくやれることを第一義に考えている康彦は、自分のエゴを殺してでも全体の利益を考える「立派」な少年です。一方で、「学校なんてどうだっていい」と考えている子たちもいます。そうした価値観の違いがぶつかるところに生じるスパーク。異質なもの同士が交わってこその人間関係であり、考え方に違いがある人間もいるのだという認識を小学生が感じとる瞬間も鮮やかです。それぞれの心理が交錯しあう男子小説としての魅力にもあふれた作品です。