さくらいろの季節

出 版 社: ポプラ社

著     者: 蒼沼洋人

発 行 年: 2015年03月

さくらいろの季節   紹介と感想>

小学校六年生の女の子たちが教室で熾烈な戦いを繰り広げるハードな物語です。これがまた陰湿な悪意に溢れていて、実にウンザリします。それでも、ただギスギスとしたお話というだけではなく、どこか抒情性がある物語だというのがポイントです。情感豊かな鮮やかな文章で描かれる主人公の心映えの美しさ。荒野の教室にも、また過ぎ去る季節としての感傷はあって、そこに生まれていたかも知れない微かな心の触れ合いを惜しむ気持ちは、あえかに美しいものです。とはいえ、なのです。熾烈な戦いと書きましたが、ここでは想像以上に過激な戦いへと進んでいきます。小学生の女子同士のいじめが刃傷沙汰にまで発展するという展開には驚かされます。こうした原色の事件と主人公の眼差しが捉える繊細な淡色の世界のコントラストが不思議な印象を残す物語です。そういえば、と切り出すようなことではないのですが、自分も小学生の時に、同級生が担任の若い女性の先生の顔を傘の先で突き刺して大怪我を負わせるという事件がありました。当時、学級崩壊もしていたし、色々とトピックがありすぎて、その一連の出来事のひとつとして、あまり心が動かなかったことを記憶しています(ちょっと自分の家も大変な時期でそれどころじゃなかったので)。客観的に考えると、大変なことに遭遇したわけだし、今になっては子どもの人格形成に及ぼす影響を考えたりするものですが、それほど驚かなかったのです。メンタルケアなんてなかった当時の学校ですが、前向きに考えると、どんな出来事も受けとめられるのが子どもの強さであり、鈍感さなのだろうと思います。本書の、この重大事件の受け止め方も異色であり、この出色の物語を彩ります。この物語の異質さは、倫理的な正しさに帰結するのではなく、人間存在をひろく受け止めていく主人公の鷹揚さにあります。是々非々で言えば、非しかない状況で、どこに是を見出せるのか。自分に与えられた、そんな子ども時代の巡り合わせをどう受けとめるべきか。実際、意味なんてないのです。もとより意味不明です。不合理な世界で、大切にすべき感性を守り生きる子どもたちの姿に考えこまされる圧巻の物語です。

小学六年生の女子、めぐみのクラスは、支配力の強い理奈たちのグループに牛耳られています。理奈の始めたポイント制は、忘れものなどクラスの風紀を乱す行為を厳しく減点し、班単位の連帯責任で罰を与えるものでした。低学年の頃は、めぐみや親友の優希と三人で親しくしていた理奈でしたが、今は、クラスの中心で、取り巻きの一伽たち勝気な女子たちを率いているリーダー的な存在となっています。大人しいめぐみたちは、そんな理奈に距離を置きながらも、それでもかつて親しくしていた頃の思い出を共有する仲間として愛着を持っていました。理奈たちの締め付けによって、クラスは閉塞感を強めていき、色々なトラブルが起きます。そうした中で、理奈たちの行為の是非を問う姿勢を崩さず、時に向かっていく優希の姿は、めぐみにとって憧れるものでした。ところがその優希が転校してしまい、クラスは歯止めが効かなくなっていきます。中学受験に力を入れはじめた理奈に代わって、クラスを威圧する一伽は、クラスで孤高をかこっている、何かと衝突する五十嵐さんに対して、執拗な嫌がらせを続け、次第にそれはエスカレートしていきます。五十嵐さんと親しくなった、めぐみは、この状況を見ながら、なにもできない自分に不甲斐なさを覚えます。それでもついに、五十嵐さんとともに立ち上がる時がきます。五十嵐さんとめぐみの反撃は、一伽たちに大きなダメージを与え、それがさらに一伽の報復を呼ぶことになります。五十嵐さんにカッターで襲いかかった一伽。結果的に、止めようとした担任の沢井先生を切りつけることになった一伽は登校できなくなり、またエスカレートしすぎたことから同じグループの子たちからも見放されます。学校に来れなくなった一伽に、めぐみはその心情に寄り添い、どんな眼差しを向けたのか。一伽の暴走をとめられなかった理奈もまた、その責任を感じていました。犯罪の域にまで到達した、いじめと抗争。やっぱり、これ沢井先生の教室運営の失策だよなあと思いますし、責任はさらに上の人たちにあります。それもまた子どもたちが乗り越えていく試練であり、そこに生まれる情感もあります。通り過ぎていく季節を、少女たちはどう感じとったのか。その感受性を惜しむ物語です。

いじめはどこの世界にもあります。その事実を否定しないところから始めないと、それを抑止することができません。いじめ防止対策推進法が存在するのもそのためです。自分が勤めている会社でも、パワハラ防止法が施行された影響が組織施策の中で見受けられるようになってきています。難しい案件も多く、相談窓口の設置程度では抑止が難しいかも知れませんが、こうした組織的対応をやっている感が重要です。学校もまた然りでしょう。それは、こどもたちは「本当はみんな良い子」と信じる基本姿勢とは別の次元にある話です。おおよそ、いじめは加害者の心の歪みに問題があります。被害者側が学校を追われるなど日本の状況はおかしく、加害者をちゃんとカウンセリングして矯正する必要があります。そういった意味では、まだ経験の少ない先生が教室で、手強い生徒に孤軍奮闘している状況は組織的対応とは言えず、悲劇を生み出す温床になっていると思います。歳をとってから自分の居たあの教室の問題点を考えると、やはり学校の対応の巧拙を考えてしまいます。組織力を向上させるのは、さらに上位の責任でもあるでしょう。一方で、そんな永遠に成熟しない集団社会を生き抜くには、自分自身がタフになり、自衛しなければなりません。ただ、ここは戦場だと覚悟を決めても、あえて非情で冷酷なふるまいをするべし、ではないでしょう。大切なものを守るために戦うことは良しとしても、感受性を摩滅させることは避けたいところです。まず大切に守るべきは自分の感受性です。繊細で情感豊かにこの世界を情緒的に捉えながら、しなやかにタフに生きる。そんな世界観が両立している、どこか不思議な物語である本書に、人が自分の魂を毀損せずに生きることの方法を見せてもらった気がします。