まがった時計

出 版 社: 国土社

著     者: 吉田とし

発 行 年: 1969年


まがった時計  紹介と感想 >
浜男は小学校六年生。妹と両親、おばあさんと狭い2DKのアパートで暮らしていました。お母さんに内蔵の病気が見つかり、入院して手術を受けることになりましたが、ここに大きな問題が発生します。大学病院で高名な先生の手術を受けるのには、通常の手術料の他、先生への高額な「お礼」が必要になるというのです。20万円のお礼は、月収5万2千円のタクシー運転手であるお父さんからすると、かなりの大金です。お金を工面することに奔走するお父さんを見ながら、浜男は医者の傲慢さを思い、世の中の不合理を思います。お父さんがタクシー運転手であることに誇りを持っている浜男は、学校でも、優良ドライバーであるお父さんのことを自慢したくてなりません。ところが、学校に提出する書類の親の職業欄は「会社員」と書きなさいと両親には言われるのです。何故、タクシー運転手と書いてはいけないのか。学校の友だちは、浜男のことを「くもちゃん」と呼びます。「くもすけドライバーの運ちゃん」の息子だから、という理由です(高度成長期のこの頃は、タクシーの需要不足で乗車拒否が横行し、法外な金額を要求する運転手が社会問題になっていました。くもすけとは悪徳駕籠かき。そして「運ちゃん」という言葉も、運転手の蔑称です)。お父さんを誇りに思っている浜男は、そのことで同級生と喧嘩をしてしまいます。運転手も医者も人の命を預かっている。それなのに、医者は正規の手術料以外の法外なお礼を要求していても社会の中で尊敬されるのに、どうしてタクシー運転手はそんな目で見られるのか。社会の矛盾に突き当たる浜男。さて、お母さんの手術は無事に済み、お医者さんにお礼をしなければならない時がきました。お金がないお父さんとお母さんは、どのようにして、その瞬間をやりすごすのか。そして、そんな両親の姿を見つめる浜男の視線は一体、何をとらえるのでしょうか。

既存の児童文学が「文学という名のために、子どもをとりまく種々の文化財から、わざとはなれた柵の中にとじこりすぎていた」ことを批判し、現実的な広い視野に立つことを標榜した国土社の「新選創作児童文学」の最初の一冊。刊行の翌年の1970年には、読書感想文全国コンクールの課題図書に選ばれた作品です。お金についてもリアルな数字が登場するし、お父さんがどのように仕事をしてお金を稼いでいるのか、また雇用状況の不安定さなども、子どもの視点から描かれていきます。親がお金に困って、もはや解決できない状態が生じてしまう。親が社会の中で置かれている状況を見ながらも、子どもは何もできない。社会の理不尽さを子どもが知る時です。親が仕事をして生活を支えていることは、現代でも変わりませんが、例えば、親の雇用形態が不安定なことの難しさが子どもに与えている影響などは、現代の児童文学では、なかなか描きえないものかと思います。子どもに、あまり見せたくないものを見せないようしているのか。無論、現代の社会にも「差別」や「不公平」はあり、児童文学もそれを、さらっと「なかったこと」にしてしまっているわけではありません。ただ、社会の不合理に対して反骨心を抱かせるよりも、そうしたものに関わらないようにすることが主流になっているような気がします。子どもに見せようとする世界、隠そうとする世界の変遷は確実にあると思います。

この作品の子どもたちは、同時代のリアルな生活感の中で、因習的な社会制度や偏見という現代の「敵」に立ち向かいます。しかし、「大人の不正を正し、やりこめる子ども」というマンガ的な痛快さはなく、圧倒的な勝利もないまま、現実の範囲で、こうした問題をどう消化するかだけが問われる結末です。貧しさの中にあっても、人間として正しくいられるのか。実際、貧乏だから清いとか、金持ちだからズルいということはなく、貧すれば貪するのが人間です。人間として本質的な意味での「敵」とは、おそらくは心の中にある何かです。本書の中で孫たちに嫌われている祖母は、人としてのイヤラシサが子どもにさえ見えてしまうところがあるからです。自分が人としてどうあるか、ということでしか、社会の理不尽には対抗できない。しかし、それこそ時代をこえて児童文学が伝えていこうとしているスピリットなのではないかとも思えます。吉田としさんという名前は、いわゆる「家族もの」だけではなく、ユーモラスな作品や、社会悪に挑む力強い抵抗文学など、振り幅の広い作風を持っています。本書もまた、そうした力の一端を見せてくれる作品で、突き抜けるパワーを感じます。この本に当時の子どもたちはどんな感想文を書いたのでしょうか。