わたしは食べるのが下手

出 版 社: 小峰書店

著     者: 天川栄人

発 行 年: 2024年06月

わたしは食べるのが下手  紹介と感想>

大食漢を自認していますが、某うどんチェーン店に行くと、他のお客さんたちの健啖家ぶりに驚かされることがあります。そんなに天ぷらを食べられるのか、という驚きは、自分が若い頃ほどは揚げ物を食べられなくなってきた衰えを感じているからかと思います。ここで負けた気になるというのは、やはり沢山食べられる方が偉い、という価値観があるからです。小学生の時、給食でおかわりすると先生にほめられた記憶もあり、そんなスピリットが涵養されたのだろうと思います。会社帰りに地元の商店街でコロッケなどの食べ歩きをしている高校生を見ると微笑ましくなるし、カップ麺を食べ歩く猛者には、やるなあと賛辞を送ってしまうのです。近年人気の韓国YAを読むと、食べ物の描写が多いことが目につきます。子どもたちが実によく食べるのです。トッポギなどのソウルフードやカップ麺もおやつ感覚です。これはお国柄でもあるらしく、買い食いも推奨されているとか。食べることが立派な体躯を作ると考えられているようです。食べることで生きるエネルギーを補給している、というのは比喩であり、真理でしょう。自分のような人間はこの大食礼賛の風潮が嬉しくなってしまうわけですが、いわゆる食が細い人にとっては、ありがたくないものだろうと想像します。いや、想像したこともなかった、というのが正直なところです。食が細い人の立場や気持ちなど考えもしなかったのです。食べられない人を侮ることも、眉をひそめることもないのですが、気にも止めていないというのは、やや配慮が足りないところだし、一方で配慮されることも余計なお世話なのかとも考えさせられます。このところ(2024年現在)「会食恐怖症」というキーワードが取り沙汰されています。食事を一緒にする相手の視線が気になり、心身に悪影響を与えられるという症状です。物語でも、汐見夏衛さんの『さよならごはんを明日も君と』(2024年)には人前で食事ができないことで実に辛そうな会社員の青年が登場していました。本書『わたしは食べるのが下手』も、こうした、食べることは楽しくてあたりまえ、の「良識」に一石を投じる作品です。児童文学は、良識を蹴飛ばしてでも、子どもたちのサイドに立つものです。ということで、ヒヤヒヤするのは、今回は自分がわりと良識側にいるという負目です。この作品をどう読むかは、ちょっとしたチャレンジなのです。

中学一年生の女子、葵(あおい)は食が細く、食べるのも遅く、家では食パン一枚に30分も要するほどです。彼女の学校生活は給食をいかに遅れずに残さずに食べるかというプレッシャーにさらされています。実際、食べられない彼女に向けられる非難の目があることも確かで、目下の懸案はじきにくる給食の完食週間をどうやりすごすかです。クラスに迷惑をかけているという自覚が葵は追い詰められます。ついには気分が悪くなり食事中に教室を抜けだし保健室で嘔吐しようとしたところを介抱してくれたのは、同級生の咲子(さきこ)でした。クラスで問題児視されている咲子。不登校や保健室登校を続ける彼女は、葵の状態が「会食恐怖症」であると指摘し、咲子自身もまた、その気持ちがわかるというのです。咲子は葵にこの世界への反抗を促します。そこから新任の栄養教諭橘川先生と対峙して、学校に給食改革の要望書を出すということになろうとは、大人しい葵としては驚きの展開です。咲子もまた、心に抱えたものがありました。痩せていて、綺麗じゃなければならないという思い込みが、咲子に食事をすることをためらわせていたのです。それが摂食障害の段階にまで及んでいることを葵も知ることになります。宗教上の戒律から特定の食品を口にすることができない同級生の女子、ラマワティや、父親がメンタル不全で仕事ができず家計が苦しく、学校給食を頼りにしている男子、コッペの立場など、それぞれの事情を受け止めながら、葵は考えを深めていきます。やがて、自分が会食恐怖症であることをクラスで共有した葵は、それを文化祭でに給食改革プロジェクトの発表につなげていきます。食べることが嫌いなわけでも、苦手な訳でもない、ただそれが今は下手というだけ。美味しく食べたいという願いは、より良く生きることに通じていくのです。

本書では学校給食の功罪が取り沙汰されています。会食恐怖が子どもたちを苛むのは、給食の完食主義がプレッシャーを与えるものだからです。学校給食に関する問題は多面的で、本書で語られていない側面が、これも見事な作品である『がんばれ給食委員長』では言及されています。一方で同書では、本書が扱う問題には考えが及んでいません。また、貧困家庭の生徒児童が給食を生命線にしていることにも本書は触れて、それが主人公の葵の心境に影響を与えますが、既に多くの児童文学が貧困を描く上で給食が生命線であることに触れており、中でも『八月のひかり』のような傑出した文芸作品もあります。読み比べることで、色々な気づきが得られるものですが、そこは作品の優劣をつけるものではなく、多様な見方があることを感じ取ってもらえると良いなと思います。本書のユニークさは、主人公、葵のスタンスとその視座です。少食の人が給食をどう考えているのか。葵の主張は、恐らくは大多数にとって共感を得られないものです。場合によっては、反感を抱かれることもあるでしょう。ただ、その本意はどこにあるのか、見極めなければなりません。彼女は食べることが嫌いなわけではなく、無理強いされている状況を理不尽だと感じているだけなのです。悪くもない人に罪悪感を抱かせてしまうことは加害です。マイノリティの子どもたちが世の中から疎外されることから守らねばならないし、本書のように物語が寄り添浮うことで力づけられる子どもたちも少なくないはずです。幸福に食事ができればこしたことはないですが、健康を害さないかぎりは、食事を無理してとらなくてもかまわないという鷹揚さも、人を安心させるものになるでしょう。まあ、サプリメントで栄養補給しているのが常態だったりするご時世です。完璧な食事なんてないということも、人を安心させるものでしょう。学生の頃、教職課程の講義で、世の中の一般的な幸福なイメージを前提にして言葉を使うなと言われたことが印象に残っています。教員はクリスマスや誕生日が幸福なイベントになり得ない子どもいることを肝に銘じておけ、ということです。自分にとって運動会は暗黒イベントでしたが、多くの子どもたちにとって晴れの場であったことは理解しています。父の日、母の日も、家庭によっては苦いものになることも想像できます。さて給食はいかがなものか。全方位配慮はとても難しいものですが、人が幸福に共存するためには、色々な可能性を頭に入れておく必要があり、一方で萎縮せず、歓びを交わせるようでありたいと思います。実は自分も会食が苦手で、コロナ禍以降、それにかこつけて、参加を遠慮することがほとんどでした。これは、食事云々というよりはコミュ障からくるもので、人と話をすることが得意ではないからです。そもそも精神安定剤を常用して、社会生活を乗り切っている状態です。食べることが好きなので、気まずい思いをしながら食事をすることが耐え難いのですが、これもちょっと理解されにくいかも知れません。誰しもが何かしらの障壁にぶつかっていたり、心の事情があるものです。あたりまえだと一刀両断してしまっていることを、立ち止まって想像することで、穏やかな共存のレンジを広げていくことができれば良いなと思っています。そんな想いを抱かせる一冊です。