十二歳の合い言葉

出 版 社: ポプラ社 

著     者: 薫くみこ

発 行 年: 1985年10月


十二歳の合い言葉  紹介と感想 >
かおり、梢、菜々。森下小学校創設以来の悪童と呼ばれている三人組。女の子ながら先生のお小言をもらってばかりの毎日です。授業をエスケープしたり、男の子とケンカしたり、先生にイタズラを仕掛けたり。笑って、泣いて、怒って、跳び跳ねて、元気に楽しく小学校生活の最終年の日々を送っています。十二歳のはじけるような輝きと周囲にまき散らすエネルギーが目に眩しい。リズム感あふれる心地良い文体で描きだされていくその躍動に息をのみます。そんな三人に最初の変化が訪れたのは運動会の日でした。リレーの最終ランナーだった俊足の梢がレース途中で倒れこんだのです。心臓弁膜症という病気だとわかった梢は、得意だったスポーツができなくなります。そんな梢のことを心配しながらも、かおりには気になっていることがありました。裕福な家に育ったかおりは、進むべき大学が決められており、どうせなら付属の中学校を受験することを密かに検討していました。でも、それでは中学に進学してもまた三人一緒に仲良くしようという約束を破ることになる。そんな秘密を胸に秘めたまま、かおりは二人に話すことができないでいました。それなのにデリカシーのない担任教師のハマグリが、うかつにそのことを口にしたため、三人の間に亀裂が入ってしまいます。さらにおいうちをかけるような事件が起きて、三人の仲はよりギクシャクします。仲良くしたいと思いながらも、一度こじれると、なかなか素直になれない年頃の難しさ。やんちゃだった女の子たちが、ふと大人びていく季節を描き、その揺らぐ心の細やかな美しさと、信じ合う気持の大切さを伝えてくれる作品です。

明るく元気で、それでいて繊細な十二歳の女の子たちの感受性が豊かに表現された作品です。それほど起伏のない日常を描いたものですが、彼女たちが敏感に感じ取る世界には、いたるところにドラマが生まれていきます。かおりが家庭教師の男の先生をだんだんと好きになっていく過程であるとか、菜々が同級生の男の子の視線や息づかいに、自分への好意を感じ取ったりとか、思春期未満の十二歳とはいえ、彼女たちは、この後にくる恋愛の季節の予感を孕んでいる存在です。身体の成熟もまた目前に迫っています。そんな切羽詰まった時期の女の子たちは、その鋭い感覚で、鋭敏に自分のまわりの空気のゆらぎを感じとっていきます。自分の心身がうまくコントロールできなかったり、妄想や思惑が先走ってしまったり、心ばかりがフル回転するのを自分でも押さえられない。勉強ができたり、運動ができたり、顔立ちが整っていたり、それぞれに個性や美点がある三人は、教室のマイノリティではありませんが、完璧な子でもありません。だからこそ、ヒソヒソ話をしたり、メソメソした女の子なんてまっぴら。先生に嘘を言って、自分たちを追いこんだイジイジした女の子に制裁を加えたりすることも厭わない、思い切ったところもあります。ばっさりとダメな人間を切り捨ててしまう十二歳の少女的な残酷さも持ち合わせている。等身大の女の子でありながら、しなやかな強さを持ち合わせているところに、同世代が憧れる存在として支持されるところがあったのかと思います。

児童文学に近いジャンルにジュニア小説というものがあります。すでに懐かしい言葉になっていますが、少女小説や少年小説の後継として昭和中期に隆盛を迎え、文庫の形式としては後のライトノベルに引き継がれていった流れです。本作には、これまでの児童文学にはないジュニア小説的なライトさを垣間見ることができます。恋愛も含んだ、女子のドキドキするような日常を、明るく楽しく、ちょっと切なく描いていく少女向け児童書の起点のひとつですね。本作はまた成長を描く児童文学としてのエッセンスもしっかりと描きだされ、秀逸な作品となっています。読みやすく、同世代に共感を迎えられた、読者にぐっと歩み寄る作品ではなかったかと思います。ここで僕が言うジュニア小説的というのは、同時代よりも、もう少し古いタイプ(それこそ秋元文庫など)の感覚です。一方で、80年代初頭のジュニア小説は、集英社コバルト文庫の中興期のはじまりで、氷室冴子さんや新井素子さんが活躍されていた頃です。こちらもまた、旧来のジュニア小説からの進化の段階にありました。例えば、同じ女子三人組小説でも氷室冴子さんの『クララ白書』シリーズなどの世界観の広がりや楽しさには、また別種の趣があります。これについても語りたいことが沢山ありますが、それはまた別の機会に。