イカル荘へようこそ

出 版 社: PHP研究所

著     者: にしがきようこ

発 行 年: 2021年05月

イカル荘へようこそ  紹介と感想>

煮詰まりすぎた家族関係。父親は仕事がうまくいかず、家族にどなり散らしてばかりいます。母親はそんな父親の機嫌を気にするあまり、体調を崩して、パート勤務どころか、家事もできなくなって寝こんでしまい、食事はコンビニで買ってきたものになります。ますます機嫌の悪くなる父親に、中学二年生の娘はうろたえながら、なぜ母親は父親の言いなりで何も言い返せないのかと思いつつ、自分でも何も言えないまま、この状況に耐えるしかないのです。この家族カプセルがこのまま閉じた状態では、物語は動かないわけですが、現実ではよくある話なのだろうと思います。娘はこの状態に耐えながら成長して、両親に対する愛憎を持て余し、家族関係に葛藤し続けることになるでしょう。あるいはいつか訣別の時がくるのか。いずれにせよ、幸福な家族関係とは程遠いものが継続し、それを受け入れることが運命となのだと自分の人生を振り返ることになるのかも知れません。この物語では、主人公がこの家庭環境から逃げ出したことで突破口が開かれます。フォローをしてくれる人たちとの出会いがあって、人生の指針を与えられるという幸運。そして、複雑に絡みあってしまっていた家族関係の心の綾も、すこし解けていきます。物語は、偶然の成り行きで、上手い方に転びます。読後にちょっと考えてしまっているのは、こうした救済を必然にするための社会制度のことです。このところ(2021年現在)の子どもをめぐる社会問題を扱った作品にはそうした視点があって、福祉を積極的に活用することを子ども自身が学んでいく展開もよく見られます。一方で、本書のような比較的浅いDVやモラハラの程度では、まだ「問題未満」の状態で、逆に解決の糸口がないという絶望感もあります。できることは、広く世界に目を向けて、自分の環境の異質さに気づき、適切なアドバイスを公正な第三者に求めるしかないのですが、それもまた福祉か学校の役割となるか。ご近所のお節介な人たちの介在によって子どもが助けられる時代は終わっているとすれば、そんなお節介な人たちを自分で見つけに行かなくてはならないのです。そんな時代の物語です。

真子がイカル荘にホームステイすることになった経緯は込み入っています。中学二年生の女の子が、縁もゆかりもない三十代半ばの女性画家の暮らす洋風の家、イカル荘にたどり着くことになったのは、偶然なのか、運命の導きであったのか。もめ続ける父親と母親に諍いに耐えられなくなり、家を飛び出した真子が、あてどなく町をさまよっているいるうちに見かけた画廊では女性画家の個展が開催されていました。そこに飾られた『祈る少女』という一枚の絵に見入ってしまった真子は、ふいに気を失います。目覚めても、家に帰りたくないと言い出す真子に、個展を主宰していた画家の夏鈴さんは、何か事情があることを感じとり、自宅であるイカル荘にホームステイすることを提案します。なんとか両親を説得してもらった真子は、ここに暮らしているインドネシアからの留学生である十六歳のデフィンとともに、女性三人の共同生活を始めることになるのです。落ち着ける場所を得たものの、それでも真子の心に浮かんでくるのは、一度怒り出すと誰も怒りを止められずに、どなり散らす父親と、何も言えないまま涙を流す母親の姿です。いらだってクッションをソファに投げつける父親の残像は、いつも真子の心を苛んでいました。揉めごとの火種が自分のことともなれば、尚更、いたたまれません。そんな苦しみを、はっきりと打ち明けることもできない真子。それでも、夏鈴さんとその父親であるジジとのユニークな親子関係や、デフィンの遠く離れた家族に寄せる気持ちに少しずつ真子は影響を受けていきます。『祈る少女』の絵に込められた、夏鈴さんの母親への想い。その寂しさを力に変えて、人にお節介をやく夏鈴さんと、悪態をつきながらもニクい立ちまわりを演じるジジのお陰で、家族との絆を取り戻していく真子の姿が労しくも、希望を抱ける物語です。

バードウォッチングが物語のキーとなっていきます。真子が暮らすことになった、イカル荘という名前も、怒る、ではなく、鳥のイカルから付けられたものです。夏鈴さん一家がバードウォッチングが趣味であったことから、真子もまた一緒に鳥の生態を観察に出かけます。そこで見たタカ柱は圧巻でした。多くのタカ(サシバ)が上昇気流に乗ろうと連なり集まって、旋回しながらうずまきのように空へと立ちのぼっていく。群れながらも、それぞれが独立した存在であるその姿が、真子の心に兆すものがあります。ここには大黒柱という言葉が対照的に仄めかされてもいます。真子の父親像や家族像ともオーバーラップしながら、あるべき家族の姿がここに示唆されてもいるようです。独善的でモラハラ気質の父親と自虐的な母親。ごくナチュラルに母親を否定する父親の言葉の暴力は娘としては耐え難いものがあると思います。そんな困った人である真子の父親が、ジジからバードウォッチングに誘われ、次第に鳥に夢中になって、その心境を新たにしていくというのが、意外な展開であり、娘である真子にも俄かに信じられないところなのです(読者的にもびっくりです)。実際、怒り続けることは、当人だって好ましい状態ではないのです。できれば笑って過ごしたいはずなのに、そう生きられないのはなんらかの心の事情があるからです。そんな父親の苦衷に家族は歩み寄るべきかどうか。これは難しい問題です。当人の資質のせいだけではなく、家族の関係性の問題として還元して、受け止めることなのか。モラハラ父さんをどう受け入れるか、は難しいテーマであり、作品、作家によって、その落とし所は違います。本書は、行き過ぎて家族と行き違ってしまった父親にやや同情的です。娘を大切に思うあまり、というエクスキューズでD Vやモラハラを容認してはダメなわけですが、2021年現在、まだここにバッファがあります。真子が悩んだ先に見つけ出したものについても、是非、ご注目ください。